同時代に生きた数々の偉人の中でも、他に比肩するものがないほどの偉業を成しながら、
それぞれの大義と大義がぶつかり合った「
佐賀戦争」の責任を負わされ処刑されるという
衝撃的な最期が影響しているのか、戦争から150年が経過した現代においても、
江藤の比類なき功績に値する正当な評価がなされておりません。
このため、佐賀県では、令和6(2024)年の江藤新平没後150年に合わせて、
佐賀戦争とともに消されてしまった江藤の真の功績に光を当てて
「復権」を図る「江藤新平復権プロジェクト」を展開しています。
■「本当にすごいんです、江藤新平。」
○東京奠都(てんと)を提言
江藤新平は、大木喬任とともに、江戸を「東京」として新たな都をおくことをいち早く提言。
○司法権の確立
江藤新平は、司法省の初代長官となり、『司法職務定制』を定め、これまで府県の権限でバラバラに行われてきた
裁判事務を司法省に統一するとともに、全国への裁判所設置や判事・検事・代言人(弁護士)制度の導入など、
「人民の権利」の保護のための司法権を確立。
○三権分立を提言
江藤新平は、立法と行政、そして司法がそれぞれ独立する事によって権力の濫用を防ぎ、国民の権利と自由を保障する「三権分立」の仕組みを提言。
○国民皆教育制度の導入
江藤新平は、国家が全国民の教育に積極的に責任を負う方針を明示。江藤の親友で後任者として文部行政を引き継いだ大木喬任の下で制度化。
○四民平等を推進
江藤新平は、四民平等という一貫した信条を持ち続け、教育や職業選択、裁判など様々な分野で身分差別の解消を実践。
▼他にも多くの功績を残している江藤新平。詳細はリーフレットをご覧ください
■約4万人の方が来場!江藤新平特別展を開催
江藤新平の没後150年を迎えるにあたり「没後150年特別展 江藤新平―日本の礎を築いた若き稀才の真に迫る―」を開催。
約2か月間の期間中で約4万人の来場者数を記録し、好評を博しました。
会期:令和6年(2024年)3月15日(金曜日)~5月12日(日曜日)
■好評だった特別展を”常設展化” 江藤新平の”凄さ”を体感できます
【“江藤新平”コーナー】
好評を博した「江藤新平特別展」を佐賀城本丸歴史館内に常設化。
映像やグラフィック、歴史資料(複製)などで江藤新平の功績を体感することができます。
場所 :佐賀県立佐賀城本丸歴史館(佐賀県佐賀市城内2‐18‐1)
開館時間:9時30分~18時00分
▼江藤新平常設展チラシデータ
■2月1日に「江藤新平復権・島義勇顕彰式典」と「記念シンポジウム」を開催しました
佐賀戦争で霞んでしまった江藤新平と島義勇の真の功績や「志」に光を当て、
復権・顕彰の機運をさらに大きなうねりとすべく「式典」と「記念シンポジウム」を開催しました。
【江藤新平復権・島義勇顕彰式典】
令和7年2月1日(土曜日)に県立博物館東側駐車場殉国十三烈士の碑周辺にて、江藤新平と島義勇の御子孫の方々や、
これまで江藤と島を長年に渡って顕彰いただいている関係団体の皆さまなどにご出席いただき、式典を開催しました。
式典では、出席者による献花や功績団体への感謝状の贈呈、佐賀東高校演劇部の代表者による江藤新平復権宣言などを
行いました。

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江藤と島を長年に渡り顕彰いただいた方々 及び関係者の皆さま | 佐賀東高校演劇部による復権宣言 | 復権宣言 |
▼式典の様子はYouTubeからご覧ください
【記念シンポジウム】
・主な内容 歴史有識者によるシンポジウム
(1)基調講演 井沢元彦(いざわ もとひこ)氏
(2)クロストーク
井沢元彦氏
榎本洋介(えのもと ようすけ)氏
川副義敦(かわそえ よしあつ)氏
伊藤昭弘(いとう あきひろ)氏

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基調講演 歴史家の伊沢元彦 氏 | 専門家を交えたクロストーク |
▼シンポジウムの様子はYouTubeからご覧ください
定説では、「佐賀の乱(佐賀戦争)」は、明治7(1874)年2月に「江藤が佐賀で起こした士族反乱」と位置付けられてきました。
しかし、江藤は本当に自らの意思で「反乱」を起こしたのでしょうか。
江藤は、佐賀戦争のたった1か月前、副島種臣(佐賀)、後藤象二郎(高知)、板垣退助(高知)らとともに、
基本的人権と人民の自立を目指す、日本初の近代政党「愛国公党」を結成しました。
そして、国民が選んだ議員による国会開設を求める「民撰議院設立建白書」を公表し、一部の権力者が政権を運営する現政権の体制を
痛烈に批判しました。
その翌日、江藤は東京を離れ、佐賀に帰郷しますが、それは、政府への不平不満を募らせて、不穏な空気が高まっていた佐賀の士族を説得し、
騒動を収めることが目的であったと考えられています。しかし、江藤帰郷の翌日に、明治政府No.2の岩倉具視が高知県士族に暗殺されかけるなど、
士族の動向に過激になっていた政府は、江藤の帰郷を危険視しました。
(一方の江藤はと言えば、一旦佐賀に入ったものの、今は説得が難しいと考えたのか、長崎の親戚宅に移動し、静養、舟遊びを楽しむ
こともあったようです。)
そして、江藤が長崎で過ごしていた明治7(1874)年2月3日、福岡県庁(当時は国の機関)から内務省(警察・地方行政等を管轄する国の機関。
トップは大久保利通)に「佐賀県下不穏」を伝える電報が届くと、すかさず政府は翌4日に「出兵命令」を出し、新任の佐賀県権令(国の官僚)
岩村高俊を、軍隊帯同で佐賀県に赴任させることとしました。
この実力行使を前提としたような異常なやり方に挑発されて佐賀の士族は決起し、結果、2月12日に佐賀入りした江藤は、首領に担ぎ上げられた
と言われています。
ここで重要なのは、政府が出兵を決定した2月4日の時点では、江藤は佐賀の士族と合流すらしていなかったということです。
このことについて、明治大正期の歴史家・久米邦武は、明治44(1911)年6月20日の佐賀新聞に「佐賀事変の如きは、全く江藤君の与らぬ所で、
海嘯(津波)にさらわれたようなものである。」と述べ、また、歴史家の大久保利謙氏(大久保利通の孫)は、自身の論文中で「佐賀征韓党(江藤を
指導者とした団体)としては、全く政府から売られた決起であった。」と述べています。
つまり、江藤は「国会開設」による体制変更を目指していた真っ最中であり、武力蜂起による解決を想定して動いていませんでした。
また、政府から一方的に戦争を仕掛けられた佐賀士族には、自衛の戦い以外に選択の余地はなかったのです。