志波屋(しわや)四の坪地区2区 弥生時代後期後半
後期後半になると、2区西側の370・389区を中心に竪穴建物跡が複数営まれるようになり、集落として再び利用されるようになったようです。終末期にも集落は継続しており、北西部や北東部において長方形基調の竪穴建物と少数の掘立柱建物からなる集落が営まれています。
一方、後期後半~終末期の墓地については、明確に時期が判別できる遺構が非常に少ないものの、時期不明の土坑墓などのなかには当該期に属するものが含まれていると考えられます。いずれにせよ、後期後半~終末期の墓地は、吉野ヶ里遺跡全体でみても同時期の集落遺構に対し明らか対しに数が少なく、その実態は現時点では不明です。