[1810-1843]
幕末、武雄領主鍋島茂義の命により、西洋砲術の第一人者であった長崎の高島秋帆に学び、他藩に先駆けて西洋の技術を佐賀にもたらした。その後、平山の主導のもと佐賀藩では本格的な軍事改革が進められた。しかしその最中、高島をめぐる疑獄事件に連座したのか、34歳という若さで打首となった。
写真:「モルチール臼砲」 武雄鍋島家資料 武雄市蔵
江戸幕府後期の名老中 小笠原 長行(おがさわら ながみち)
[1822-1891]
唐津藩主小笠原長昌の長男として誕生したが、長昌死去(1823年)後は、幼少のため庶子とされ、藩主に就くことはなかった。やがて藩主の名代となり、幕府の若年寄に抜擢。老中に昇進し、徳川家茂、慶喜のもとで内政外交に手腕を発揮した。戊辰戦争では旧幕府側で徹底抗戦を主張し、箱館まで転戦した。
写真:唐津市所蔵
近代書道の祖 中林 梧竹(なかばやし ごちく)
[1827-1913]
明治三筆の一人。小城藩士の子として生まれ、その才能は幼少のころから知られる。19歳の時、藩命により江戸で書を習う。
小城に戻り30歳で藩校の教師などを務めた。廃藩置県を機に書の道に専念する。56歳で中国留学した後は、独自の芸術性豊かな書風を確立。その書は、今なお人々を惹きつけている。
画像提供:小城市立中林梧竹記念館
岩倉使節団として欧米視察 山口 尚芳(やまぐち ますか)
[1839-1894]
通称「範蔵」。若くして長崎で洋学や英語を学ぶ。岩倉使節団の副使として欧米12カ国を視察し、世界から日本を見る目を培った。その後も初代会計検査院長、元老院議官、参事院議官、高等法院陪席裁判官など要職を歴任。地元武雄市花島では、1930年に顕彰碑が立てられ、毎年1月「範蔵祭」が開かれている。
写真:『岩倉大使一行写真』より 武雄市蔵
近代歴史学の先駆者 久米 邦武(くめ くにたけ)
[1839-1931]
1871~73年に岩倉使節団の大使随行として、欧米12ヵ国の歴訪の記録を担当し、1878年に公式報告書「米欧回覧実記」を刊行した。その後、歴史学界で活躍し、東京帝国大学の教授を務め、特に日本古代史の科学的研究に業績を残した。
写真:久米美術館所蔵
初代沖縄県令 鍋島 直彬(なべしま なおよし)
[1843-1915]
鹿島藩最後の藩主、鍋島直彬は、明治5(1872)年、供とわずか3人でアメリカ視察に出発。9カ月にわたり活力みなぎる現地の司法や立法や行政を学び、『米政撮要』を出版した。その後、廃琉置県後の初代沖縄県令に着任。旧慣温存を表明し、勧学・勧業を重点政策として沖縄の基盤づくりに貢献した。
写真:高木背水作「鍋島直彬像」 佐賀県立美術館蔵
日本の工芸デザインの祖 納富 介次郎(のうとみ かいじろう)
[1844-1918]
画力を買われて幕府の上海視察に同行し、のちの佐賀藩の中国貿易に関与。ウィーン万博に出展のために渡欧し、陶磁器など工芸の最新知識を身に付け、フィラデルフィア万博でも活躍。工芸技術の向上と技術者の育成を目指し、金沢工業学校・富山県工芸学校・香川県工芸学校・佐賀県立有田工業学校(現在の有田工高)を設立した。現在4校は姉妹校として交流している。
写真:納富介堂翁事蹟(大正6年刊)より
日本近代建築の父 辰野 金吾(たつの きんご)
[1854-1919]
唐津出身で、帝国大学工科大学学長・建築学会会長を務め、伊東忠太・関野貞など多くの人材を輩出した。西洋建築学を学び、設計の頑丈さから「辰野堅固」と呼ばれた。「中央停車場(現東京駅)」「日本銀行本店」「武雄温泉新館・楼門」など日本を代表する作品を手掛け、日本近代建築の礎を築いた。
写真:唐津市教育委員会所蔵
沖縄の近代化に貢献 齋藤 用之助(さいとう ようのすけ)
[1859-1933]
明治12(1879)年、警察官として沖縄県に赴任。その後、行政職に転じ、道路整備や実業教育、産業振興など多岐にわたり沖縄の近代化に貢献。明治36(1903)年の硫黄鳥島噴火の際は、島尻郡長として一人の犠牲者も出さずに全島民700名を久米島へ移住させた。大正4(1915)年の退官時には、県民1万人による送別会が盛大に催された。