(2017年7月12日~2017年12月27日放送分、2018年1月3日特別番組)
第1回 直正公の育ての親「磯濱(いそはま)」(2017年7月12日放送)
富田さん:こんばんは~。マスター。お久しぶりです。
マスター:(口の中をモグモグさせながら)やぁ、富田さん、お久しぶりです~!
富田さん:あ、これは失礼! お食事中でしたか?
マスター:
いや、ちょっと小腹が空いたので、大好きなあんドーナツを食べていたんですよ。
コーヒー、すぐ用意しますね。(手をはたく)
富田さん:あ~あ~、服に付いた粉砂糖をぱっぱっと払って…。お育ちが分かってしまいますよ…。
マスター:うちは家族全員、昔からこんな感じですね。
富田さん:マスターのご家庭にも、磯濱(いそはま)さんのような方がいらっしゃればですね。
マスター:磯濱さん?どこかで聞いたような名前ですね。
富田さん:えぇ。じゃあ、きょうは直正公の「育ての親」磯濱さんをご紹介しましょう。
マスター:どんな方でしたっけ?
富田さん:
はい、10代佐賀藩主・鍋島直正公は、今から200年ほど前の文化11年(1814年)に、江戸の佐賀藩邸で生まれました。現在の日比谷公園がある場所にお屋敷があったんですね。幼い直正公の生活面を指導する躾役(しつけやく)には、何人かの女性が選ばれたんですけれども、その代表格が、きょうの主人公、磯濱さんでした。
マスター:う~ん。
富田さん:
この磯濱さん、とにかく厳しい。例えば、直正公がお庭に出ようとして自分で足袋を脱ごうとしていると、磯濱さんが一喝。
「自らの手で足袋を脱ぐなど、大名に有るまじき行為!」
つまり、大名たるもの、お付きの者に脱がせなければならないというのです。現代の一般的な教えとは真逆ですが、将来、藩主となるためのエリート教育の一環だったんですね。
マスター:なるほど。
富田さん:ただ、その一方で、佐賀藩の大切なお世継ぎだからといって、過保護にすることはなかったようです。
マスター:ほぅ。
富田さん:
直正公がお庭でどんなに泥んこになって、水を浴びて遊んでも、それをセーブさせるどころか、お庭の小石を取り除いて、池に転落しないように柵を設置することで、もっと自由に安全に、大いに遊べるようにと環境を整えるような人だったんですね。
マスター:周りの皆はヒヤヒヤしそうですね。
富田さん:
そんな心配をする、ほかの女中さんたちに対して、磯濱さんは一言。
「よいよい、ほっとけばよいのだ」
つまり、子供にはのびのびさせよ、という考え方で直正公を育てたんです。磯濱さんは、立場的には、佐賀藩邸に勤務する一人の女性でありながら、お世継ぎの育ての親として、豪快、かつ細心の注意を払いながら、大らかに直正公の精神を育てた立役者と言っていいでしょうね。
マスター:なるほど。それで、直正公にとって磯濱さんは、どういう存在だったんでしょうか?
富田さん:
直正公が40歳を迎えた時、磯濱さんは70歳を過ぎた頃なんですけれども、直正公はこんな言葉を手紙で江戸の藩邸に伝えています。
「磯濱がやや体調を崩しているそうですね。以前から聞いてはいましたが、このたび佐賀出身で、江戸にいる医者・伊東玄朴からの報告で詳しく知りました。藩邸の皆さんもさぞかし心配なことでしょう」
また、しばらく後の手紙には、「磯濱が訴えていた体の痛みが段々と快方に向かっていると聞き、この上なく安心しました」など、磯濱さんの体調について、直正公は一喜一憂していたようなんですね。よほど幼少期の恩義を感じていたと思いますね。
マスター:「三つ子の魂百まで」というやつですね。
富田さん:
さらに、直正公は隠居する直前、跡を継ぐ嫡男の直大(なおひろ)公に向けて7ヵ条の心得書を贈っています。その一節の中に「江戸の藩邸には、女中さんたちもたくさんいるが、彼女たちのことを決して粗略に扱ってはならない」と諭しているんですね。
直正公は基本的には、身分や格式を重視する方でしたが、それによって人の中身まで評価するということはなかったようです。心のこもった働きをしてくれた方に対しては、感謝の念を何十年経っても持ち続けていたんですね。
マスターも親御さんに恥をかかせないように、良識ある行動を心掛けた方がいいと思いますよ。
じゃあ、ご馳走様でした!
マスター:
ありがとうございました。う~ん。うちは結構、しつけは厳しかったと思うんですがね~。 あ、富田さん、コーヒー残してる・・・。もったいないから、ドーナツ浸けちゃお。
第2回 直正公の理想のリーダー「鍋島直茂(なべしま・なおしげ)」(2017年7月19日放送)
富田さん:こんばんは~。マスター。
マスター:やぁ、富田さん!いらっしゃい!
富田さん:おや、きょうは読書中だったんですか?
マスター:えぇ。この前、実家の納屋を整理していましたら、古い家系図が出てきましてね。その系図をさかのぼってみると、どうやら我が家のご先祖は、ここだけの話、地球の外からやって来たみたいなんですよ。ほら、ここに頭がツルンとした、タコみたいな絵が描かれているでしょう?
富田さん:
(心の声)あ、頭がツルンとね・・・。あぁ、それはそうとマスター、先週から僕が、鍋島直正公にゆかりの人物を紹介していますが、どうですか? 興味を持ってもらえましたか?
マスター:えぇ!そりゃあもちろん!それでいくと、きょうは「ご先祖様」について聴いてみたいですね。
富田さん:じゃあ今回は、直正公が「理想のリーダー」としていた「鍋島直茂公」を紹介しましょう。
マスター:ぜひお願いします。
富田さん:
この直茂公は、佐賀藩の基礎を築いたことから「藩祖」と呼ばれています。佐賀藩初代藩主・勝茂公のお父上にあたる方で、直正公から見ると、曾々々々々おじいさんにあたる方なんですね。年数でいうと200年以上前のご先祖ですけれども、単に血縁というだけではなく、直茂公と直正公は深い間柄でつながっていたんです。
マスター:と、言いますと?
富田さん:
直正公は17歳で藩主になる前、6歳の頃から儒学や武道などの修業に励みます。また、幼少の頃には、藩祖直茂公の教訓書を、毎朝、人に読ませて聴いていたそうで、ご先祖の学習の中でも、とりわけ藩祖直茂公の考え方を重視しながら育っていったんですね。
実は今年2017年は、直茂公が亡くなってからちょうど400年の節目にあたるんです。今から150年前は、直茂公没後250年にあたる年。幕末の慶応3(1867)年がその年です。
このとき直正公は、城下の町人たちが、直茂公を祀る松原神社(日峯社)の参道で、大規模なお祭りを行うことを特別に許可します。
マスター:町の人たちは喜んだでしょうね。
富田さん:
そうなんです。普段は贅沢をせず、芸能なども制限されている町人たちは、この時ばかりはと歓喜して、準備を進めていたんです。ところがそんな時、お目付の役人がやって来まして「三味線などの囃子は許可するが、踊りなどは認めない!違反者は容赦なくお縄にする!」と言って、舞台装置などを厳しくチェックし始めたんです。
マスター:せっかくの盛り上がりが台無しですね~。
富田さん:
えぇ、そうなんですよ。そこで、このことを聞いた直正公は、役人を呼び出して、こう言います。
「よいか。領民たちは、普段は質素に、緊張感を持って生活している。その緊張を、お祭りを通じて一旦は弛めてあげて、そして祭りが終わったら再び緊張感のある暮らしに戻す、そういうメリハリが大切なんだ。お囃子は許可するのに踊りは認めない、などという中途半端なやり方があるものか!どんな演芸を披露するかは、彼らの自由にさせなさい!」と、激怒したんですね。
マスター:さすが直正公!領民の立場に立った、正に「神対応」ですね!
富田さん:
そうですね。直正公が幼少期に毎朝耳にしていた藩祖直茂公の言葉の中に「子孫の祈祷は、先祖の祭(祀)りなり」という一節があります。子孫というのはご先祖のお祀りを熱心にしなければならないという意味です。
また、別の一節には「人間は、下程骨折り候事、よく知るべし」という言葉があります。普段は汗をかいて骨を折って暮らしている領民の様子を知っている直正公だからこそ、盛大で自由な祭りを許可したんですね。
ちなみにこのとき、直正公自身もお子様を連れて祭りの観覧に出掛けて楽しんでいます。
マスター:きっと、賑やかなイベントだったんでしょうね~。
富田さん:
はい。実は、このときの盛大な熱気に包まれたお祭りの実際の様子を写した古い写真が、このほど鍋島家の資料の中から新しく発見されまして、私が勤務している佐賀市の徴古館で(2017年)7月29日まで初公開しているんですよね。
マスター:おぉ~、初公開!これは、家系図なんか見ている場合じゃありませんね!徴古館に行かなきゃ!
富田さん:そ、そうですね。ありがとうございます。そうだ、マスター、その家系図、ちょっと調べてみたいので貸して貰ってもいいですか。
マスター:あぁ、もちろんいいですよ。
富田さん:ありがとうございます。じゃあマスター、お預かりしていきます。ご馳走様でした!
マスター:は~い、ありがとうございました。
富田さん:ん!?この本、家系図じゃないな。「世界の未確認生物図鑑」って書いてある。UMA(言うま)でもなく、またまたマスターの勘違いだな、これ・・・。
第3回 生涯をともにした側近「古川松根(ふるかわ・まつね)」(2017年7月26日放送)
富田さん:こんばんは~、マスター。うわっ!何ですか、その格好!
マスター:あ、富田さん(シュノーケルをくわえてる)、いらっしゃい。
富田さん:名前入りの海パンに、シュノーケル、大きな浮き輪に、足ヒレまでつけて・・・。
マスター:
いや、幼なじみと、店がハネたら泳ぎに行こうと約束をしていまして。
あ、でも富田さんのお話を聴いてからですよ。きょうはどなたなんです?
富田さん:きょうは直正公と生涯を共にした側近「古川松根」を紹介しましょう。
マスター:「生涯を共に…」というと、二人の出逢いは古いんですか?
富田さん:
はい。江戸時代の大名家には、藩主のお世継ぎに「御遊び相手役」を付けるという慣わしがありました。この役には、お世継ぎと年齢の近い藩士の息子を選抜して、一緒に生活を送ることで、社会性を育みながらお世継ぎは成長することができたんです。直正公にとって、大切なお遊び相手が、今回の主人公、1歳年上の古川松根なんですね。
マスター:大役に抜てきされるということは、松根少年はかなり優秀だったんじゃないですか?
富田さん:
そうですね。穏やかな性格だったといわれる松根は、直正公の育ての親、あの磯濱さんから怒られることはあまりなかったそうです。ただ、のちの回顧談の中で、磯濱さんから時にはお灸を据えられたこともあったと語っていますから、直正公と共に厳しい養育を受けながら成長したようなんですね。
マスター:子供とはいえ、大変なお役目ですね。
富田さん:
えぇ。直正公が藩主に就任した後も、松根は側近として仕え続けます。実は、彼はマルチな芸術肌の人物で、和歌も詠めるし筆を握らせれば絵もうまい。デザイン感覚も抜群で、現在の伊万里市大川内山にあった鍋島藩窯のやきもののデザインまで手掛けたといわれるほどなんですね。
また、刀や骨董品に関する知識も豊富で鑑識眼も鋭かった松根は、直正公が所持していた美術品や調度品の管理も任せられていたんですね。
さらに松根は、武家社会の伝統やマナーも熟知していましたから、TPOに応じて直正公の衣裳をコーディネートしたり、腰にさす刀をチョイスしたり、日常では、直正公の髪を結ったりヒゲを剃ったりと、直正公にとって生活面で何より頼れる存在でした。
マスター:なくてはならない存在ですね。
富田さん:
そんなある日、直正公は松根の腕を見込んで、ある1人の女性の肖像画を描かせます。
その絵の脇には、直正公が直筆で「その厚い恩恵に、いまだ報いることができていません」という意味の漢文を記して、完成した肖像画を本人にプレゼントしました。
マスター:ん?
富田さん:その女性というのが…。
マスター:ひょっとして…。
富田さん:そうです。幼少期の直正公や松根を育ててくれた磯濱さんです。
マスター:なるほど~。
富田さん:
このとき磯濱さん71歳。40年近く経ってもなお、その御恩に感謝していた2人からの古稀のお祝いだったのかもしれませんね。
マスター:いい話ですね~。
富田さん:
やがて明治4年、直正公は58歳で病気のため亡くなります。1月18日のことでした。その葬儀の準備をある程度整えた松根は、準備係の関係者3人を自宅に招き、おもむろにビールで乾杯して慌ただしい準備の労をねぎらいます。そしてその翌日、家族が外出しているとき、自宅で自害して直正公に殉死したんですね。
マスター:え~!
富田さん:
1月21日、つまり直正公の死去から3日後のことでした。自宅での乾杯に加わっていた一人、久米邦武は松根の死をのちに知って、あの日のビールが別れの盃だったことを悟ったと語っています。
マスター:う~ん。
富田さん:
現在、直正公の眠る佐賀市大和町の春日御墓所には、直正公のお墓の後ろに小さく松根のお墓があるんですね。そして直正公を祀る佐嘉神社には、隣接して松根を御祭神とする松根社があります。幼少期から晩年に至るまで、文字どおり直正公と生涯を共にした松根は、今なお直正公と共に佐賀の町を見守りつづけているんですね。
あれ!? マスター、海パンは着替えたんですか?
マスター:
えぇ。いまのお話を聴いて、感動しました。海水浴はやめて、幼なじみと大川内山で窯元めぐりをしようと思います。
富田さん:
それはいいですね。松根が手掛けた鍋島藩窯のデザインの系譜に触れられるかもしれませんね。いいコーヒーカップが見つかったら、ぜひお店でも使って下さいよ。じゃあ、ご馳走様でした!
マスター:
ありがとうございました!う~ん。一生付き合える友人と、やきものかぁ。私では、ちょっと器が小さいかもしれませんねぇ。
第4回 直正公に嫁いだ将軍の娘「盛姫(もりひめ)」(2017年8月2日放送)
富田さん:こんばんは~。マスター。あれ!? 読書中でしたか? 写真集ですか?
マスター:
ああ~、富田さん。いえね、世話好きな親戚のおばさんが、お見合い写真を持って来てですね~。どなたも申し分ないんですが、私なんかとは、釣り合わないと思うんですよね~。あ、富田さん、見ます?
富田さん:(心の声)ん?「よい子の動物図鑑」・・・。何かが間違っているような…。
マスター:あ、富田さん、直正公をとりまく人物、きょうはどなたを紹介してくれるんですか?
富田さん:えぇ。タイムリーと言えばタイムリーですが、きょうは直正公に嫁いだ女性「盛姫」さまです。
マスター:これは興味深いですね~。「良家のお嬢様」だったんでしょうね。
富田さん:
えぇ。盛姫様は、11代将軍・徳川家斉(いえなり)公の娘さんでした。家斉公のお子様は50人以上いて、姫君があちこちの大名家に嫁ぐんですが、そのお一人で、特に家斉公の愛情が深かったのが、盛姫さまでした。結婚式が挙行されたのは、直正公が12歳の時。盛姫さまは3歳年上の姉さん女房だったんですね。
マスター:年上だとしても、お若いですね~。
富田さん:最初の縁談話が持ち上がったのは直正公3歳の時。そこから結婚まで約10年を経てようやく実現したんです。
マスター:将軍の姫君をお迎えするとなると、準備も大変だったんでしょうね~。
富田さん:
そうなんですよ。まず現在の日比谷公園にあった佐賀藩の上屋敷を増改築してお住まいをご用意。嫁入り道具も膨大で、例えば、大きな長持だけで140棹。
マスター:ほぅ~。
富田さん:
当然1度では運びきれませんので、1日2回を3日間、合計6回に分けて運び込まれるほどの量でした。
マスター:そんなに大がかりだと、夫婦生活も大変だったんじゃないですか?
富田さん:
確かに、同じ邸内とはいえ、お住まいは隔たっていたんですが、新婚夫婦はちゃんと3度の食事も一緒に召し上がったり、盛姫さまの誕生パーティーには、別の屋敷に住んでいた直正公のお母さまも御祝いに駆けつけるなど、嫁姑関係も良好だったようなんですね。
マスター:いいお話ですね~。
富田さん:
そんな中、結婚の翌年、直正公は初めて鎧を着る「鎧召し初め」という儀式を行います。この時用いられた鎧が、あの藩祖・鍋島直茂公がかつて着用したという由緒ある鎧だったんです。わざわざ佐賀から江戸まで運び込んで、儀式が執り行われました。この時盛姫さまは、直正公との子宝に恵まれますようにとの願いを込めて、ご先祖様の鎧に向かって跪いて、手を合わせて拝んで敬意を表されたそうです。これを見た周囲の人たちは、将軍様の姫君でありながら、もはや外様大名鍋島家の婦人になったことを自覚されて、直茂公の鎧にここまで敬意を払われるとは、とその人格に感じ入った、というエピソードが残っているんですね。
マスター:それはきっと、鍋島家の皆さんは嬉しかったでしょうね。
富田さん:
また、直正公が藩主になって6年目、不幸なことに佐賀城が火災で焼失して再建費用の工面が課題になります。この時、盛姫さまはご実家の徳川家と交渉して、2万両という大金を幕府から借りることを成功させたりと、徳川家と鍋島家の間を取り持つ重要な役割を果たされたんですね。
マスター:影となり、日なたとなり、ご主人の直正公を支えた、素晴らしい奥様だったんですね。
富田さん:
ただ、そんな盛姫さまなんですが、37歳の若さで病のため亡くなります。そのお墓に経歴を記す文章を書いたのが、あのマルチな文化人であり、直正公の側近の古川松根だったんです。奥様を亡くした直正公には、早くも次の縁談話が舞い込みます。お相手は筆姫さまという方。この二人がどのようにして結ばれたのかは、また時期がきたらお話しますね。あぁ、マスター、おせっかいかも知れませんが、その写真の縁談話、もうちょっと考え直した方がいいと思いますよ。じゃあ、ご馳走様でした。
マスター:
ありがとうございました~。そうですよねぇ。せっかく愛し合っても、先立たれると辛いでしょうね~。ん?この方なんかどうだろう?「ガラパゴスゾウガメ」。寿命100年以上・・・。うん、彼女とだったら、長く付き合えそうですねぇ。
第5回 直正公の師匠「古賀穀堂(こが・こくどう)」前編(2017年8月9日放送)
富田さん:こんばんは~、マスター。あれ?何のハガキですか?
マスター:
あぁ~、富田さん、いらっしゃい。毎年、お盆の時期に同窓会がありましてね。その招待状です。同級生もなんですが、当時の先生方に会えるのも楽しみなんですよね~。
富田さん:なるほど。では、きょうは直正公の師匠とも言える人物を紹介しましょう。
マスター:お願いします。
富田さん:
直正公は学齢期に入ると、次第に磯濱さんたち女性陣の手を離れて、男性の先生たちによる文武両道の教育を受ける段階に入ります。
マスター:う~ん。
富田さん:直正公に6歳の頃から家庭教師役として付いた人物が、今回の主人公、当代きっての儒学者、古賀穀堂先生です。
マスター:はいはい。
富田さん:
直正公は先生から教わる儒教のテキストなどもよくのみ込んで、漢詩も詠み、書道の腕前もグングン上達。16歳になった時、その成長ぶりについて穀堂先生は、佐賀にいた多久出身の学者・草場佩川(くさばはいせん)に宛てた手紙の中で、こう述べています。「先日、直正公にお目にかかったところ、話題が次第に佐賀藩の運営に関する大きな議論に発展し、大の大人も及ばないほどの御論弁をふるわれた。そして、佐賀藩のためならどんな倹約をも受け入れて、死んでも構わない覚悟であるという意志を表明された。このようなご様子であれば、今後よき補佐さえ付いたならば、歴史上の優れた藩主にも劣らないほどの名君になられることだろう」
マスター:私も子供の頃、よく言われていましたが、まさに「神童」ですね。
富田さん:
そして翌年、17歳にして10代佐賀藩主になった直正公は、生まれて初めて佐賀にお国入りをされます。もちろん、飛行機も新幹線もない時代でしたから、江戸から佐賀まで、およそ1ヵ月ちょっとの行程でした。長期にわたる大移動の最後の宿泊地は、現在の鳥栖市にあった長崎街道の轟木宿(とどろきしゅく)。その轟木を早朝に出発して、直正公は自らの目で佐賀の人たちの様子を見たいと言って、駕篭(かご)から降りて馬にまたがって、佐賀城に向けて進みます。沿道の領民たちは、新しい藩主のお姿を目にして、手を合わせて拝む者さえいたと言われているんですね。お供していた穀堂先生は、その日記に、沿道から上がった歓声について「雷の如し」と記しているんですね。
マスター:すごい歓迎のされようですね。それで、直正公が藩主に就任した後、穀堂先生はどうされたんですか?
富田さん:
はい。先生は、藩主就任後も側近の代表格として藩政改革をバックアップしたんです。佐賀に入ってきて早速、改革に燃える直正公。佐賀城に藩の重臣たちを招集して、倹約に対する固い決意を語り聞かせます。「佐賀藩の財政再建のためならば、私自身どんな倹約であっても受け入れる覚悟ができています。あとは、あなた方重臣の誰もが気持ちを入れ替え、一致団結し、命をなげうって、しっかりと職責を果たしてほしいものです」
マスター:はぁ~、17歳といえば、今で言うまだまだ高校生・・・。そんな歳で、こんな難しいことを考えていたんですね~。
富田さん:
う~ん、確かに。17歳の青年の決意としては、まことに志の高い言葉でした。しかし、残念ながらこのお言葉、重臣たちの心には必ずしも響かなかったんです。重臣たちからしてみれば、初めて佐賀に来た17歳の若いお殿様から、「私はもう覚悟ができているんだから、あとはあなた方がしっかりやってもらわないと困るんだ!」と言われたんですから、それはやはり、なかなか素直にはなれないでしょう。
マスター:なるほど。
富田さん:
藩主と重臣の間に、温度差が生まれてしまうんですね。若いゆえに直正公は、重臣たちの心をうまくつかむことができずに、藩主生活は苦労の船出になったんですね。
マスター:それから、どうなったんですか?
富田さん:あっ、いけない!もうこんな時間だ!英会話教室に行かないと!
マスター:えぇ~!!これから面白くなるのに!!
富田さん:すみません、マスター。続きはまた来週ということで、ご馳走様。See you next week,master!
マスター:
ありがとうございました~。さりげなく英語を使うあたり、きっと富田さんも、いい先生に就いてもらっているんでしょうね~。
第6回 直正公の師匠「古賀穀堂(こが・こくどう)」後編(2017年8月16日放送)
富田さん:こんばんは~、マスター。
マスター:
あ~、富田さん!お待ちしていましたよ。先週は、お話が途中になっていましたからね。17歳で藩主になった直正公が、なかなか家臣たちに受け入れられず、両者の間に温度差が生まれた・・・ということでしたよね。で、どうなったんですか?
富田さん:
はい、はい。こうした様子を冷静な眼で見ていたのが、直正公の家庭教師役だった古賀穀堂先生です。先生は直正公に、こうアドバイスします。「今の佐賀藩の問題点は、殿の高い志を重臣たちが受け入れていないことだと思われます。実は、佐賀藩には弊害となっている風潮として、妬むこと、決断しないこと、そして、負け惜しみを言う。この3つの病があります。これを改善しない限り、佐賀で大事業を成し遂げることはできないでしょう。そして厄介なことに、この病は、とりわけ重臣たちの間に蔓延(まんえん)しているのです」
マスター:当時の佐賀藩って、そんなに複雑だったんですか?
富田さん:
ええ。その頃の藩内には、諫早家、多久家、武雄鍋島家、白石町(しろいしちょう)の須古鍋島家、みやき町の白石(しらいし)鍋島家、鳥栖の村田鍋島家など、各地に領地を保有して、その地名が家の名前となっている重臣たちが数多くいたんです。
マスター:そりゃあ複雑ですねぇ。
富田さん:
だから、いくらお殿様がこうしたいと言っても、それぞれの地域特有の歴史や慣習、考え方がありますから、すぐに共感を得られるというものではなかったんですね。
マスター:う~ん。
富田さん:
しかも直正公は真っ直ぐな性格の持ち主ですし、その若さもあって、物の言い方もストレートですから、時には角が立ってしまうこともあったようなんですね。
マスター:江戸屋敷生まれの坊ちゃんが何を・・・というやっかみもあったのかも知れませんね~。
富田さん:
そうかもしれませんね~。そういった空気を感じ始めた直正公。しばらくして再び重臣たちを集めて、こう語りかけます。「佐賀藩の低迷は、まだ若い私の不徳が原因です。ただ、あなた方重臣の誰もが普段から綿密に話合いをして、私などの智恵の及ばないところを助けていただきたいのです。もちろん私の考えに疑問を抱いたり、他に思うことがあれば、包み隠すことなく発言して欲しいと思っています」
つまり、直正公は、遠慮し合うよそよそしい空気に対して、重臣同士での話し合いや、藩主と重臣の間の率直な意見交換を求めたんです。これを知った穀堂先生は、おそらく大いに安堵されたことと思いますね。
マスター:教えた甲斐があったということですね。
富田さん:
そんな穀堂先生も、病には勝てませんでした。直正公が藩主になって7年目。60歳を迎えた穀堂先生の病状が次第に悪くなったんです。
マスター:直正公もさぞ心配だったでしょうね。
富田さん:
そうなんですよ。自宅療養をしていた穀堂先生を、ある時直正公はお見舞いに行きたいと思い立ちます。でも穀堂という、重臣ではない一藩士の自宅訪問をお殿様が事前に言い出せば、必ずや反対する役人が出ると予想した直正公。ある日、郊外に「狩り」に出かけた帰り道に、こう切り出します。「確か、穀堂の家はこの辺りではなかったか?せっかくだから、ちょっとだけ立ち寄っていこうか」
マスター:うん。
富田さん:
役人に断る間(ま)を与えさせない状況でお見舞いを実現させたんですね。この時穀堂は、もはや布団から起き上がることもできないほど衰弱していましたが、直正公はお見舞いのしるしとして、忍ばせていたお茶を寝床の穀堂先生に手渡して、いたわりの言葉をかけたんです。
マスター:へぇ~。
富田さん:
この異例の突撃訪問が、直正公と恩師との最後の対面になったんですね。生前、穀堂先生は直正公に対して、学問を通じた人材育成の必要性を説いていました。その先生が亡くなってから4年後、直正公は藩校・弘道館の移転拡張を実現させることができたんですね。
マスター:穀堂先生も、きっと草葉の陰で喜んでいたでしょうね。
富田さん:えぇ。あ、いけない!もうこんな時間だ。歴史セミナーに行かないと!
マスター:先週は英会話、今週は歴史セミナーと、いろいろ習ってらっしゃるんですね?
富田さん:いえいえ、きょうの歴史セミナーは講師として行くんですよ。
マスター:あぁ~、そうなんですね!場所はどこなんですか?
富田さん:えぇ。そこを走っている"国道"のすぐ側です。じゃあマスター、ご馳走様でした!
第7回 穀堂が後継者として期待「永山十兵衛(ながやま・じゅうべえ)」前編(2017年8月23日放送)
富田さん:こんばんは~、マスター。(返事がない)ん?マスター!?
マスター:あぁ、富田さん。いらっしゃい。
富田さん:また考えごとですか?
マスター:
先週、高校の同窓会に行ってきたんですが、もうみんないい歳になっていまして「そろそろ一線から引退を」とか言っている奴もいましてね。私も、この店を誰かに託そうかな~なんて考えていたんですよ。
富田さん:
う~ん。まぁ、確かに「引き際」ってありますからね。そうだ!きょうは、あの古賀穀堂先生が後継者として期待をかけていた「永山十兵衛」という人物を紹介しましょう。
マスター:穀堂先生というと、直正公が「師匠」とあがめていた人ですよね。
富田さん:
そうです。直正公が藩主になって間もなく、家臣との擦れ違いに悩んでいた時、穀堂先生が色々なアドバイスをしてくれましたよね。
マスター:ええ。
富田さん:
この時、周りの役人たちの中には「直正公は19歳という、まだ若いお殿様なんだから、側室を付けてあげればいいのでは」と、提案する者もいました。これを知った穀堂先生は「彼ら役人は、何も分かっていない」と嘆いたんです。側室を付けるようなことでは、何の解決にもならないと判断したんですね。ところが穀堂先生は、直正公と常日頃から一緒に生活を送っているわけではありません。そこで、穀堂先生が期待をかけたのが、永山十兵衛だったんです。
マスター:ほぅ。
富田さん:
永山はこの頃、直正公のそばで小姓(こしょう)というお世話係をしていました。そこで穀堂先生は、永山に「側室を付けることを、ぜひ阻止してくれと」頼みます。
マスター:うん。
富田さん:
永山は直正公と話をして、その結果を早速翌日、穀堂先生に報告。「ご安心ください。直正公の意志は鉄のように固いものでした」と。つまり、側室はとらないという直正公の考え方を確認したんです。
マスター:なるほど。
富田さん:
また直正公の心の健康を保つため、気持ちを落ち着ける呼吸法まで穀堂先生と一緒に協議して、直正公にアドバイスしたと言われているんですね。直正公はお部屋でお香を焚いて、静かに座し、精神の修養に努めるなど、永山たちと一緒に苦難の時期を乗り切ろうとしたんです。
マスター:今で言う「セラピスト」の役割も担っていたということですね。
富田さん:
そうですね。さらに、永山の素晴らしい働きは続きます。江戸への参勤交代のメンバーに、あの穀堂先生さえも入れてもらうことができない中、永山はお供できることになったんです。
マスター:うん。
富田さん:
そこで、穀堂先生は直正公を江戸にお見送りするにあたって、自らの想いを認(したた)め、永山に託します。その文章とは「古へより、名君というものは、必ずや困難に遭遇するもの。その困難を経たのちに、才能を発揮できるものです。焦る必要はありません」というものでした。
マスター:う~ん、染みますね~。
富田さん:
さて、直正公が藩主になって6年目、佐賀城が火災に遭った直後に人事改革が行われました。この時、穀堂先生は藩校・弘道館の教授心遣いとなり、同時に永山は、小姓と弘道館教諭の兼任を任されます。永山は「これを機に藩内の質素倹約をさらに強く推進しよう」と穀堂先生と一緒に協議をして、参勤交代の人数削減などを実行します。
マスター:へぇ~。
富田さん:
江戸の方では、あの盛姫さまが実家である徳川家と交渉して2万両を借りるとともに、さらに倹約を断行したことで、お城の再建費用を賄うことができたんですね。その翌年、永山は、重要事項を協議する御仕組所(おしくみしょ)という役所への参画も命じられ、直正公の右腕の一人として、さらに藩政改革を推進することになったんです。
マスター:直正公にとっても、穀堂先生にとっても、ますます永山十兵衛への期待が高まりますね。
富田さん:ところが、実に悲しい運命が、この三人を待ち受けていたんです。
マスター:えぇ!?どういうことですか?
富田さん:あ、いけない。もうこんな時間だ。じゃあマスター、続きはまた今度!
マスター:
ありがとうございました。富田さん、また一番いいところで帰っちゃいましたね~。永山のその後の話も気になりますから、来週も、この店と自宅の"長屋ま"でを往復しましょうかね~。
第8回 穀堂が後継者として期待「永山十兵衛(ながやま・じゅうべえ)」後編(2017年8月30日放送)
富田さん:こんばんは~。マスター。
マスター:ああ~、富田さん。お待ちしていましたよ!先週は、またまたいいところで帰っちゃうんだから。
富田さん:
いや~すみませんでした。直正公の師匠でもあり家庭教師でもあった古賀穀堂先生が後継者として期待していた「永山十兵衛」の話でしたよね。
マスター:はい。永山は、直正公の右腕の一人となって、藩政改革を推進することになる・・・という所まででした。
富田さん:
えぇ、えぇ。直正公が早くから蝦夷地(今の北海道)の開拓に関心を持っていて、調査探検のために島義勇を派遣したのは有名ですよね。
マスター:えぇ。
富田さん:
その島が蝦夷地に初めて行った時より20年近くも前、東北地方の事情を調査するために直正公が派遣したのが、永山でした。永山は東北諸藩を巡って、各地の政治や風習を視察。詳しい報告書を直正公に提出します。永山を東北に送り出す直前、送別のため、直正公が直筆で書き送った漢詩には「日本列島の隅っこのことは、まだよく分かっていない」という意味の言葉を詠み込んでいます。ほとんど未知の領域に派遣するほど、永山に対する直正公の信頼は厚かったんですね。しかし、そんな永山十兵衛は1846年、44歳の道半ばで病気のためこの世を去ります。
マスター:早すぎる別れですねぇ。
富田さん:
えぇ。佐賀市大和町の実相院(じっそういん)に今も残されている永山の墓石には、その生涯の業績がびっしりと刻み込まれています。その文章を考えた人物が、儒学者の佐藤一斎(さとういっさい)です。
マスター:佐藤一斎?
富田さん:
うん、彼は現在に例えると東京大学に相当する、江戸幕府直営の学校・昌平坂学問所の儒官を務めるほど、当代きっての儒学者だった人物です。
マスター:今で言うところの東大の幹部を務めるほどの実力者だったすごい方、ということですね。
富田さん:
そうなんです。そして、その文章をもとに書に表したのが、直正公側近のマルチ文化人・古川松根でした。生前、永山はあまり社交的ではなかったようなんですが、広く浅いお付き合いよりも、学問を通じて特定の人物と深い関係を築いていて、その業界では江戸でもよく知られた人物だったんですね。永山が亡くなった翌月、直正公は自らお墓参りに赴きます。藩主が一家臣のお墓参りをするのは極めて異例のことです。この時の気持ちを直正公は次のように漢詩に残しています。
「あなたほど、魚と水のような親密な間柄を築くことのできた人が、果たして他にいたでしょうか。馬に乗り、この山深いお墓に来ましたが、私は悲しみにたえません」
その学力をもって弘道館で指導的な立場も務め、その精神力と行動力をもって東北の視察まで任された永山十兵衛。後継者としてあの古賀穀堂先生も期待をかけ、直正公も絶大な信頼をおいた永山の早すぎる死に、直正公は一時期憔悴しきっていたそうです。
マスター:そうでしょうね。
富田さん:
さて、ここでトリビアです。永山の義理の甥っ子に、山口亮一(りょういち)という人物がいました。この方は、佐賀美術協会などを通じて近代佐賀の美術界をリードした人物です。佐賀美術協会が開催している「美協展」という公募展は、歴史が古く、今年で記念すべき100回目を迎えました。
マスター:へぇ~。
富田さん:
これにちなんで、現在、県立美術館では肥前さが幕末維新博プレ企画展「山口亮一と佐賀美術協会の100年」が開かれているんですよ。(※H29年9月3日で終了)あ、チラシを置いて行きますね。では、マスターご馳走様でした。
マスター:
ありがとうございました。「山口亮一と佐賀美術協会の100年」展。9月3日まで。今度の日曜までじゃないですか!早く行かなきゃ!あ、でもその前に、夏休みの自由研究を終わらせないと・・・。
第9回 直正公の兄「鍋島茂真(なべしま・しげまさ)」前編(2017年9月6日放送)
富田さん:こんばんは~、マスター。
マスター:あぁ~、富田さん。いらっしゃい。
富田さん:おや?指折り数えて、何かの計算中でしたか?
マスター:
あはははは、えぇ。好物の「いかしゅうまい」を頂いたんですが、うちには兄がいましてね。何個ずつに分ければ喧嘩にならないか、考えていたんですよ。
富田さん:
(心の声)・・・って、2個しかないんですけど・・・。あ、そういえばマスター、直正公のご兄弟の人数って覚えていますか?
マスター:確か、すっごく多かったですよね?
富田さん:
そう、46人。直正公はその17番目の男子でした。姉や妹たちは他の家に嫁ぎますが、じゃあ兄弟たちはどうなったと思います?
マスター:藩主となる人物は一人でいいわけですから・・・。
富田さん:そう、残りの男子は「養子」に出るんです。
マスター:なるほど。
富田さん:
藩内の重臣の家と養子縁組を結ぶパターンがほとんどでした。そのお一人が、今日の主人公、直正公より1歳年上のお兄さん・鍋島茂真です。年上ではありますが、側室の子どもだったため、養子に出て「須古鍋島家」の当主になりました。
マスター:須古鍋島家?
富田さん:
えぇ。「須古ずし」というおいしい押し寿司が有名な杵島郡白石町の須古を本拠地とする重臣です。戦国時代の龍造寺隆信公の弟信周(のぶかね)から始まるという由緒あるお家柄なんです。直正公の兄・茂真は、幼少期から藩校・弘道館に通って勉学に励んでいて、その学力の高さには定評があったようなんです。直正公は、藩主就任3年目、人材育成にとって大切な弘道館の責任者に茂真を任命します。
マスター:それだけ信頼していたんでしょうね。
富田さん:
はい。ところが直正公が藩主に就任して6年目、佐賀城二の丸が火災のため焼失します。直正公は、この窮地にあたり、当時江戸にいたお父上に、こうお手紙を書きます。「今までは色んなことを事前に相談してきましたが、このたびは火災という非常事態ですから、事前相談はせず、事後報告をすることにします」と。つまり現場判断・自分主導で政治を進めていくことを父親に宣言したんです。そして、その2日後、直正公は藩内の行政トップにあたる請役当役(うけやくとうやく)という役職を交代させる電撃的な人事を行います。新しいトップとなったのが、兄・鍋島茂真でした。
マスター:周りの反応はどうだったんでしょうか?
富田さん:
えぇ。この電撃人事を耳にしたあの古賀穀堂先生は、茂真が学問を重視する人物だったことなどから、その日の日記に「喜ぶべし」と書いています。そして直正公は茂真にこう伝えます「弘道館を益々発展させ、よき人材を輩出して欲しい。しかし従来の教授陣では、教育が十分には行き届かないだろうから、多久の草場佩川(くさばはいせん)を雇い入れて、教員に命ずることにした」と。つまり、火災という不慮の事故をきっかけに、行政トップを交代して、弘道館も充実させ、直正公は、ピンチをチャンスに変えたんですね。
マスター:そして、その大きな原動力の一つになったのが、兄・茂真だったんですね。
富田さん:
はい。実はこの茂真のほかにも、多くの兄弟が鹿島鍋島家や神代家(くましろけ)、太田鍋島家などの重臣の家を継いでいます。花見のシーズンには、兄弟たちが集まって、直正公とともに水入らずで酒を酌み交わすこともありました。
マスター:兄弟、仲が良かったんですね。
富田さん:
えぇ。特に、その重臣の中に、右腕とも言える兄がいたことは直正公にとって幸せだったでしょうね。あ、もうこんな時間だ!ということで、続きはまた今度。マスター、ご馳走様でした。
マスター:
ありがとうございました。またまた、話の続きは来週に持ち越しですね。今夜は早めに店じまいをして、レンコンのきんぴらをつまみに、ビールでも飲みながら、首を長~くして待ちましょうかね。
第10回 直正公の兄「鍋島茂真(なべしま・しげまさ)」後編(2017年9月13日放送)
富田さん:こんばんは~、マスター。
マスター:あぁ、富田さん。いらっしゃい。
富田さん:そういえばマスター、先週の「いかしゅうまい」の件、どうなりました?
マスター:あぁ、ハハハ。結局、兄貴が半分以上を食べてしまって、またケンカになりましたよ。
富田さん:(心の声)2個しかないものを、どうしてケンカになるんだ?
マスター:
あぁ、それより富田さん、先週の続きをお願いしますよ。養子に出されていた直正公の兄・茂真が、藩政の重要なポストに抜擢されたんでしたよね。
富田さん:
えぇ、茂真は、重臣になったからといって、その地位にあぐらをかくような人物ではありませんでした。茂真が養子に入った須古鍋島家の屋敷は現在の県庁のお隣、県立図書館の辺りにあったんですが、茂真の佐賀城への出勤時間は朝6時。退勤後には、藩校の弘道館に顔を出して、他の若手たちと分け隔てなく、一緒に机を並べて勉強に励みます。
マスター:おお~。
富田さん:
時には若手と議論を重ねてそのまま徹夜。翌朝6時に弘道館からまっすぐ佐賀城に出勤することさえあったと言われています。
マスター:すごいバイタリティですね。
富田さん:
そうですね。また通例、重臣というのは、夜中に誰かが自宅を訪ねてきても面会しないことが多かったと言われる中で、茂真はどんな深夜であってもすぐに対応して小さい部屋に招き入れ、立場の違いを越えて近い距離で何でも聞き届けて議論をしたと言われているんです。
マスター:私もそんな素晴らしい兄が欲しかったですね。
富田さん:
うう~ん。ところでマスター、直正公が藩主に就任して間もなく、重臣たちとの関係構築に悩んでいた時、師匠である古賀穀堂先生から「3つの病」に喩えたアドバイスを受けたことがありましたよね?
マスター:ええ、ええ。
富田さん:
その後、直正公は、重臣たちのそっけない風潮を変えるため「お互いに腹を割って議論し合っていこう!」という方向性を打ち出します。そんな中、兄・茂真は、若手と机を並べて、時には徹夜。夜中の訪問にも柔軟に対応して、まさに直正公の目指すベクトルを、トップとして率先して実践していたんですね。
マスター:なるほど。
富田さん:
ベテランの役人たちからは、トップとして常識破りだとか色々小言を言われることもあったようですが、その信念と持ち前の豪快さで、ぐいぐい藩政を引っ張っていったんです。
マスター:真面目で頼りになる人物だったんですね。
富田さん:
そうなんです。ただ、中にはユニークなエピソードもあるんです。茂真は藩の機密事項を直正公とマンツーマンで協議することも少なくありませんでした。その協議内容が分かる茂真直筆のメモ帳が残されています。
マスター:ほぅ。
富田さん:
ある時、長崎に砲台を築造するため幕府から借りた5万両という大金をどうやって返済しようかと、2人きりで話したことがありました。そして「利息無しでも10年や20年で返済するのは到底難しいから、300年以上かけて返済させてもらえるよう、関係筋から幕府に頼み込もうか」という話になったそうです。
マスター:へぇ~。
富田さん:
結果的に台場を築造したことが幕府のお褒めに預かって「返済不要」というありがたいお達しを受け、一件落着したんですけれども、こういうことを2人きりで真面目に議論していることが興味深いですよね。
マスター:ですね~。
富田さん:
もしも、この時「300年ローン」を組んでいたら、来年が明治維新150年ですから、まだ半分くらいしか返済できていないことになりますよね。
マスター:ハハハ。
富田さん:
あまりに真面目な二人だったこと、そして血を分けた兄弟であったからこそ、こんな議論を交わすことができたんでしょうね。
マスター:うう~ん。
富田さん:
マスターも大切なお兄さんなんですから、食べ物のことで目くじらなんか立てず、どうか仲良くしてくださいね。これ、この前唐津に調査に行った時のお土産です。じゃあ、ご馳走様でした。
マスター:
ありがとうございました。おぉ、これは大好物の「松浦漬け」じゃないですか。あぁ、でも兄貴も大好きだから、兄弟で、“吠え~る”ことになりそうですよ。
第11回 直正公の兄貴分「鍋島茂義(なべしま・しげよし)」(2017年9月20日放送)
富田さん:こんばんは~、マスター。
マスター:あぁ、富田さん。いらっしゃい。
富田さん:そういえば、先日から、お兄さんと“いかしゅうまい”でバトルがあっていたようですけど、その後、どうですか?
マスター:
いやぁ、ハハハ。先週富田さんに頂いた松浦漬けも、結局兄貴が一人で食べてしまって。実の兄ながら呆れ果てていたところなんですよ。
富田さん:
でも、そんなお兄さんでも、良いところがあるかもしれませんよ。そうだ!きょうはマスターに、直正公が「兄貴分」として頼りにしていた人を紹介しましょう。
マスター:ほぅ~。ぜひお願いします!
富田さん:
直正公のご兄弟の多くが藩内の重臣の家と養子縁組を結んだことは前にお話しましたけど、直正公のお姉さんの一人・寵姫(ちょうひめ)という方は、重臣の武雄鍋島家に嫁ぎます。そのご主人が今回の主人公、鍋島茂義です。茂義は、戦国時代の龍造寺隆信公の息子を初代とする名家の10代目ご当主。直正公の義理のお兄さんということになりますよね。年齢も茂義の方が14歳年上で、名実共に直正公の兄貴分的な存在でした。直正公の藩主6年目、佐賀城二の丸が焼失したという話、覚えています?
マスター:えぇ、えぇ。
富田さん:
その時、再建事業のチーフにあたる「御城御普請方頭人(おしろごふしんかたとうにん)」という大事な役職に任命されたのが茂義でした。このとき二の丸を再建すべきか、それとも江戸時代当初のように本丸を復興すべきか、藩内で意見が分かれます。(直正公の)お父上・斉直公は「二の丸再建推進派」でしたが、直正公は本丸の再建を主張します。その理由について直正公は、チーフの茂義にこう伝えます。「そもそも佐賀城というのは、藩祖・直茂様と初代藩主・勝茂様がお心を尽くしてお建てになったものである。そこで再建工事は本丸を中心に行い、やがては以前のように天守閣などまで建てたいと思う」つまり、以前お話ししたように、藩祖直茂公の考え方を幼少期に徹底的に学んだ直正公だからこそ、本来の姿、つまり本丸の再建を望んだんですね。
マスター:なるほど。他にも何かエピソードがあるんですか?
富田さん:
佐賀藩が西洋式の大砲を鋳造して、蒸気船も建造したことは有名ですよね。この一大プロジェクトにも、茂義が大きな役割を果たしているんです。というのは、反射炉が建造されるより20年近くも前、茂義は家来の平山醇左衛門(ひらやまじゅんざえもん)という人物を、西洋砲術のプロ・高島秋帆(しゅうはん)のもとに入門させています。今も武雄市歴史資料館には、高島秋帆が鋳造して武雄に持参したと考えられる大砲が残されています。これは日本人が鋳造した最初の西洋式大砲と言われていまして、茂義の指揮によって武雄領ではいち早く、西洋砲術の研究が進められていました。
マスター:そうだったんですね。
富田さん:
そして中国でアヘン戦争が起きた1840年、研究の成果となる砲術演習を直正公が初めて視察します。当日の陣頭指揮に立つ予定だった茂義は体調不良のため参加できませんでしたが、この日の演習は直正公の西洋式大砲への理解を高める上で大きな出来事となりました。
マスター:ほぅ~。
富田さん:
さらにはペリー来航の翌年、直正公は藩内での蒸気船製造を命じますが、その主任に任命されたのも茂義でした。つまり長年の蘭学研究の業績をもとに、西洋式大砲と蒸気船製造という佐賀藩における軍備増強の二本柱において大きな役割を担ったんです。
マスター:なるほど。直正公と、義理のお兄さんの茂義。プライベートではどうだったんですか?
富田さん:
えぇ。実は、直正公は温泉が大好き。湯治のため、武雄温泉にもしばしば滞在しています。武雄では、茂義の自宅に遊びに行くこともあって、茂義が自宅で栽培していたミカンをお土産にもらって、それを江戸にいる愛娘の貢姫(みつひめ)さんに贈ったりもしているんですよ。
マスター:公私に渡って、仲が良かったんですねぇ。
富田さん:
えぇ。だからマスターも、お兄さんと喧嘩なんかしちゃ駄目ですよ。はい、これ、仲直りに使って下さい。じゃあ、ご馳走様でした!
マスター:
ありがとうございました。おっ!これは武雄温泉の入浴券じゃないですか!では、今までのことは水に流して、兄弟水入らず、久々に裸の付き合いでもしましょうかね。
第12回 直正公の愛娘「貢姫(みつひめ)」前編(2017年9月27日放送)
富田さん:こんばんは~、マスター。
マスター:あぁ~、富田さん。いらっしゃい。
富田さん:鍋島茂義ゆかりの武雄温泉はいかがでした?
マスター:
いやぁ、その節はありがとうございました。兄貴と一緒に楽しんできましたよ。ちょうど、兄貴が自分の娘を連れて来ていまして、まぁ私には姪っ子になるんですが、その子がかわいくて、かわいくて。
富田さん:そうでしょうね。それじゃあ、きょうは、直正公の愛娘・貢姫さんを紹介しましょう。
マスター:ぜひ、お願いします。
富田さん:
直正公のお子さまは、実は18人いました。マスター、直正公が12歳で結婚した将軍の姫君のお名前、ちゃんと覚えてますか?
マスター:あぁ~、確か「盛姫」さん?
富田さん:そう。ただ、正室である盛姫さんとの間には子宝に恵まれませんでした。
マスター:でしたね~。
富田さん:
直正公が藩主就任10年目にあたる26歳の時、側室との間に第一子が誕生します。その子が今回の主人公、長女の貢姫さんです。正室は江戸の藩邸に住むのに対して、側室は佐賀城にいますから、貢姫さんは佐賀生まれの姫君です。その貢姫さんに縁談話が浮上したのは、わずか4歳の時。お相手は鳥取藩の10代藩主の方。鳥取の池田家です。 将来、池田家という大(だい)大名のお家柄に嫁ぐわけですから、江戸の藩邸に暮らす直正公の正室・盛姫さまから、必要な素養やマナーを教えてもらうため、貢姫さんは7歳の時、佐賀から江戸に移ります。
マスター:う~ん。
富田さん:
ところがです。江戸についてわずか2年後、盛姫さまが37歳で亡くなって、翌年には婚約相手であった池田公も病気でこの世を去ります。貢姫さんは、10歳前後にして大きく運命の波に翻弄されるんですね。ただその後は、直正公の再婚相手の筆姫さまや、あの磯濱さんたちと一緒に過ごし、中国の書物を習ったり、薙刀(なぎなた)のトレーニング、お琴のお稽古なども重ねていきます。そして17歳になった時、同い年の川越藩主・松平直侯(なおよし)公との縁談が整います。川越藩邸は、佐賀藩のお屋敷から道1本挟んだお向かいにありましたので、いつでも「お里帰り」ができる環境でした。
マスター:なるほど。
富田さん:
ところが、結婚から1年ちょっと経った頃、ご主人が部屋にこもりがちになります。それを知った父・直正公は、直筆の手紙を送ります。「私は、松平殿のことも心配ですが、本当のところは貢姫のことが心配です」。娘のことが一番気になるという親心を漏らしているんですね。また別の手紙では、「旦那さんはやがて回復するだろうから、心配するな」と伝えています。この時、松平公は19歳。マスター、直正公がこれくらいの年齢の時、どんな感じだったか覚えてますか?
マスター:確か、家臣と折り合いがうまくつかず、精神的に参っていましたよね?
富田さん:
そうそう。そんな自分の経験を踏まえて、「絶対によくなるから!」と言って直正公は手紙を送り続け、貢姫さんを力強く励まします。参勤交代で江戸に滞在中には、直接貢姫さんと会う機会をできるだけ設けて、松平公にもお見舞いの氷砂糖などを贈ったりしますが、残念ながら松平公は23歳の若さで亡くなります。
マスター:そうなんですねぇ。
富田さん:
直正公は貢姫さんとの文通をこの後も続けます。その期間、実に15年間。そのお父さんからの手紙を、貢姫さんが大切に保管していた約200通が、今でも私が勤めている徴古館に残されているんです。
マスター:ほぅ~。
富田さん:
その全ての手紙の写真と活字、現代語訳を付けた資料集が、あと数ヵ月で完成しそうなんです。出来上がったらマスターにもプレゼントしますね。
マスター:ぜひ、お願いします。
富田さん:じゃ、ご馳走様でした!
マスター:
ありがとうございました。そういえば、うちの兄貴も、娘にLINEをしょっちゅう送っていますが、「最近は、既読(のマーク)すらつかない」って言ってたなぁ。
第13回 直正公の愛娘「貢姫(みつひめ)」後編(2017年10月4日放送)
富田さん:こんばんは~、マスター。
マスター:やぁ、富田さん。いらっしゃい。
富田さん:ん!?メールのチェックですか?
マスター:いえね、兄貴が「娘からLINEの返事がない」って、愚痴ですよ。
富田さん:まぁ「便りがないのは何とやら」と言いますから、大丈夫じゃないんですか?
マスター:そういえば、先週伺った、直正公と愛娘・貢姫さんとの手紙のやりとり、その後、どうなったんですか?
富田さん:
えぇ、23歳にして、結婚相手の川越藩主・松平直侯公を亡くした貢姫さん。やがて、ご主人の国元の川越に引っ越すことになります。
マスター:あの埼玉の川越のことですよね?
富田さん:
えぇ、そうです。すぐに佐賀藩邸にお里帰りできた江戸から、旦那方の実家に移動するのですから、それは心細かったでしょうね。
マスター:う~ん。
富田さん:
この頃の直正公からの手紙の一節です。「川越にては如何御暮しの御事や」、「川越は佐賀などとは違い、江戸近くにて候ゆえ、何事も面白き事ばかり。必ず必ず川越を、いやなどとは申され間敷く候」
マスター:ほぅ。
富田さん:寂しい貢姫さんを気遣って、この時期は手紙を出すペースもアップ。月に2通ほど送っています。
マスター:親心ですね~。
富田さん:
手紙には直正公の佐賀での近況報告も記されていまして「昨日も夕方より神野(こうの)へ参り、大いに養生になり申し候。神野の、菊・もみじ、少々ながら遣し申し候」。佐賀城郊外に造営した別荘・神野御茶屋に出かけ、そのお庭に色づく紅葉や菊を押し花にして手紙に添えて送っているんですね。
マスター:へぇ~。
富田さん:
佐賀の押し花を送ることで、離れて暮らす貢姫さんとも佐賀での楽しみを共有したかったんですよね。アウトドア派で植物好きな直正公らしいコメントです。
マスター:貢姫さんへの愛情が手紙から溢れ出ていますね~。その他にも面白いやりとりはあったんですか?
富田さん:
はい、手紙の中に「蛇除(よ)け」というワードが、ちょいちょい出てくるんです。例えば「蛇除け遣し、よろこび存じ候。どうぞこの度のは、よく効き候ように」とか。貢姫さんが、江戸や川越から「蛇除け」というのを直正公にしばしば送っていて、それをもらって嬉しいです、という返事なんですね。どうもこれ、蛇に効果のある忌避剤というより、蛇が出ませんようにという、お守りみたいなものだったようなんです。
マスター:ということは、もしや直正公は…。
富田さん:
えぇ、実は直正公は、蛇が大の苦手だったんです。佐賀城の本丸と三の丸の間を行き来するためには、正門にあたる鯱の門を通るよりも、天守台脇の小さな門を使うのが近くて便利。でも抜け道的なところですから、ちょっと草むらがあります。そんな時、決まって蛇を追い払う「蛇追い役」が3人ほど、直正公よりも先を進むんです。それでも蛇と遭遇すると、36万石のお大名さまも、顔面蒼白。「蛇除け送ってください」とか「送ってくれてありがとう」とか「今回のは、どうか効きますように」とか。これ、娘さんとのやりとりですよ。
マスター:
天真爛漫でちょっと茶目っ気も感じられますね~。直正公が、素の自分を見せることができたんじゃないでしょうか。
富田さん:
たぶん直正公にとって貢姫さんというのは、一番何でも言える女性だったんじゃないかと思います。ところで、手紙の中で出てきた神野御茶屋は、大正12年、当時の佐賀市と神野村が合併した時に、鍋島家から市に寄贈されて、神野公園になりました。春は桜の名所としても有名ですが、直正公も紅葉を楽しんでいたように、今年の秋は神野公園でのんびりするひとときもいいかもしれませんね。じゃ、マスターご馳走様でした。
マスター:
ありがとうございました。神野公園で、お散歩かぁ。親子の仲も深まるかも知れませんね。兄貴に教えてあげようっと。
第14回 直正公の跡継ぎ「鍋島直大(なべしま・なおひろ)」(2017年10月11日放送)
富田さん:こんばんは~、マスター。
マスター:やぁ、富田さん。いらっしゃい。
富田さん:そういえば、マスターのお兄さんと、その娘さん、その後どうなんですか?
マスター:
まぁ、そういうお年頃なんでしょうが、なかなか父親の言うことを聞いてくれないようで。「親の顔が見てみたい!」って、嘆いてますよ。
富田さん:
うう~ん、そうですか。じゃあ、参考になるか分かりませんが、きょうは、直正公の息子さん「鍋島直大公」のことをお話ししましょう。
マスター:お願いします。
富田さん:
直正公のご嫡男・直大公。直正公にとって、大切な跡継ぎですから、けっこう厳しく直接指導をしています。時には心身を鍛えるために、直大公と一緒に佐賀城を朝出発して、大和・金立方面の山間部まで行って帰ってくるという、1日40km以上もの「遠足」に連れ出したこともありました。
マスター:もう遠足と言うより、トレッキングですね。
富田さん:
えぇ。この時直大公は14歳、父親の直正公は46歳でした。さすがに堪えた直正公は江戸にいる長女・貢姫さんに、手紙で「ことのほか、山険しく、大くたびれ致し申し候」と伝えています。青年期の息子の前では厳格なお父上も、愛娘には、「男はつらいよ」と本音を漏らしていたんですね。
マスター:そういうところは、今の普通のお父さんと一緒なんですね。
富田さん:
えぇ。また、直正公が最初に購入した蒸気船「電流丸」には、嫡男・直大公をはじめ、そのほかのお子さま方にも乗船体験をさせています。ハードな遠足も蒸気船も一緒に連れていく、そして体験させるというのが、直正流の教育法の一つだったようですね。
マスター:なるほど。
富田さん:
やがて、藩主の座を譲る決心を固めた直正公は、15歳の直大公を幕府へのご挨拶のため、江戸城に登城させます。佐賀生まれ・佐賀育ちの直大公が、江戸に行くのは、この時が初めて。佐賀を出発する2日前に、直大公を呼び出した直正公は、こう伝えます。「佐賀藩主としての大切な心掛けが詰まっているこの書物をしっかり熟読しなさい」。その時手渡した餞別の品が、藩祖・鍋島直茂公の言葉が記された書物でした。
マスター:あぁ、ご自身が幼少期に毎朝勉強していたという、あの書物のことですよね。
富田さん:
そうです。30年以上経って息子に同じテキストをプレゼントした直正公は、こんな言葉を掛けます。「最も大切なことの一つは、江戸に出ても、鍋島家らしい古風なスタイルを曲げないことだ」と。さらに直正公は、こう諭します。「江戸の藩邸では、年寄たちからの苦言を耳にすることもあるだろうが、素直に聞きなさい。彼らはあなたのためを思って言うのだから。また江戸の藩邸には女性たちもいる。決して軽く扱ってはならぬぞ」と。
マスター:
確かに、直正公自身、幼少期に磯濱さんたち藩邸の女性に育ててもらい、穀堂先生たちお年寄から色んな教えを受けて成長した経験がありましたからね。
富田さん:
そうなんです。まさにその実体験に基づいたアドバイスだったんですね。そして、「今回は初めての長旅だから、くれぐれも土地の食べ物や飲み物には気を付けなさい。でも雨が降ろうと雪が降ろうと、足を止めずに江戸まで辿り着きなさい」と、優しくも厳しく、息子を送り出しました。
マスター:う~ん。
富田さん:
さて、直大公より7歳年上のお姉さんにあたる貢姫さんは、この当時、嫁ぎ先の川越藩邸に住んでいました。直正公は貢姫さんに手紙でこう伝えます。「直大が江戸に到着したら、やがてあなたと面会する機会もあるでしょう。誠の誠の田舎者なので、弟・直大の面倒をよく見てください」と。次期藩主として、厳しく育ててきた直正公でしたが、息子への愛情・慈しみは、やはり「人の親」だったんですね。
マスター:なんだかほっこりしますね。
富田さん:
マスターのお兄さんも、娘さんへは「アメとムチ」を上手に使い分ければ、うまくいくんじゃないですか?じゃあ、ご馳走様でした。
マスター:
ありがとうございました~。・・・しかし、うちの兄貴、もしアメがあったら、娘にあげないで自分で食べてしまうほど、”無知”だもんな~。
第15回 直正公の弟分「有馬頼永(ありま・よりとお)」(2017年10月18日放送)
富田さん:こんばんは~、マスター。
マスター:あぁ、富田さん。いらっしゃい。
富田さん:あれ、イヤホンなんかつけて、英会話のレッスンですか?
マスター:いや、競馬中継を聴いていたんですよ。意外と昔から好きなんですよね~。
富田さん:へぇ~、じゃあきょうは、その競馬ともゆかりのあるお話しをしましょう。
マスター:ほぅ~、お願いします。
富田さん:
佐賀県のお隣、筑後川を挟んだ向こうに広がる福岡県久留米市。江戸時代にこの久留米藩を治めていたのは「有馬家」でした。年末恒例の「有馬記念」は、そのご子孫が、中央競馬会の理事長を務めていたことなどから名付けられたものです。
マスター:そうだったんですね。
富田さん:
その有馬家の幕末の藩主が、きょうの主人公・有馬頼永です。佐賀藩主・直正公には、何人か気の許せる大名がいましたが、この頼永との関係について直正公は「兄弟の間柄のようだ」と語っています。8歳年下の頼永とは弟のように親交があって、直正公が最も信頼した大名の一人でした。有馬頼永は、若い頃から藩政改革に燃えて、倹約を通じて財政再建を図り、学問を重んじると共に砲術などを重視した殿様でしたから、その点で直正公と通じる部分があったんですね。
マスター:なるほど。一方の頼永は、どう感じていたんでしょうね?
富田さん:
はい。頼永もこう語っています。「今の世の中で、水戸の徳川斉昭(なりあき)公と、佐賀の鍋島直正公は、まことに世間の評判どおりの人物で、当世の英雄と言える。私の及ぶ所ではない」と。そして、頼永はこの言葉を和紙にしたためていました。
マスター:かなりのリスペクト具合ですね。
富田さん:
ええ。実は直正公が江戸の久留米藩邸を訪問した時、この紙を見付けてしまいます。そして直正公は紙を取り上げて頼永をからかいます。頼永は信頼できる兄貴分のことを、真面目に「英雄だ」とか書いていたわけですから、その張本人に見られて恥ずかしがった・・・というエピソードなんです。
マスター:どれだけ仲が良かったか分かりますね。
富田さん:
ええ。しかし不幸なことに頼永は、若くして重い病にかかります。そこで直正公は、手紙でこう伝えます。「自分も以前、そういうことがありましたが、焦らず、気持ちをゆるく持って、まずは養生することが第一です」と。自分が青年期に精神的にまいってしまった経験を踏まえたアドバイスですね。さらに直正公は、「国のまつりごとは確かに大切ですが、国というものには、足はついていません。だから逃げていくものではありません。あなたはまだお若いのですから、まずは時間をかけて体を保養することが急務ですよ」と。
マスター:本当にお優しい方ですね。
富田さん:
そうなんですね。藩政改革に成功している自分を、頼永が慕ってくれていることも分かった上で、私も昔はそうだったんだから、焦って政治を急ぐ必要はないと、実体験に基づいて励ましているんですね。ところでマスター、永山十兵衛って覚えてますか?
マスター:確か、直正公の側近でしたよね。
富田さん:
ええ。その十兵衛が44歳の若さで病没したとき、直正公が溢れる悲しみを手紙で伝えた相手が、実は頼永でした。「僕は有能な部下を亡くして涙にくれ、ここ数日は生気を失い、骨皮だけのような人間になっています」と。
マスター:直正公にとって頼永は、自分の泣き顔までを明かすことができる相手だったんですね。
富田さん:
ええ。ところでマスター、直正公の長女・貢姫さんは、ご主人を23歳の若さで亡くしました。二人の間にお子さんはいませんでしたから、養子をとります。
マスター:大好きな娘さんにどんな養子が来るのか、直正公も心配だったでしょうね。
富田さん:
ええ。結局、養子は頼永の実の弟さんを有馬家から迎えることになりました。直正公は信頼できるお家柄の養子に、ほっと胸をなで下ろしたことでしょうね。あ、もうこんな時間だ。競馬中継は、もう終わっちゃいましたかね?マスター、ご馳走様でした!
マスター:ありがとうございました。「信頼できるお家柄」かぁ。ん!?明日のレースの予想が見えてきましたよ~。
第16回 幕末の大物大名「德川斉昭(とくがわ・なりあき)」(2017年10月25日放送)
富田さん:こんばんは~、マスター。
マスター:やぁ、富田さん。いらっしゃい。
富田さん:マスター、先週話していた競馬のレースはどうでしたか?
マスター:いやぁ「深読みができない」っていうか、なかなかどうして、難しいものですね。
富田さん:
じゃあ、参考になるかどうかは分かりませんが、幕末の日本で、名君として最も名の知れた殿様の一人、水戸藩主の徳川斉昭公を紹介しましょう。
マスター:お願いします。
富田さん:
御三家の一つ、茨城県の水戸藩は太平洋に面していますから、沿岸警備にも熱心で、大砲の鋳造や大型船の建造の必要性を感じていた点で、直正公と似ています。また蝦夷地開拓の必要性を考えていた点も直正公との共通点です。しかも、斉昭公が創設した水戸藩校の名前は「弘道館」。佐賀藩校と同じ名前なんですね。
マスター:なるほど。直正公との接点は?
富田さん:
はい。斉昭公は直正公より14歳年上の先輩格。直正公は藩主9年目・25歳の時に、斉昭公から水戸藩邸に招待されます。2人の話題は、武士の嗜みとして必要な弓や馬の話に及びました。この時、斉昭公は直正公にこうふっかけます。「我が家に名馬がいますから、あなたの得意な馬の取扱いぶりを皆に見せてやってくださいよ」と。これに対し、直正公はこう答えます。「恥ずかしながら私、太平の世に生まれた大名育ちゆえ、名馬を手なずけることには不慣れでございます」
この一部始終を見ていた水戸藩士の一人は、直正公にいたく感心します。「鍋島殿というお方は、まったく飾りっ気のない天真爛漫な性格でおられる。普通の人間であれば、メンツがあるため、出来ぬものも、さも出来るかのように言い紛らわすところだが、事実のままを素直に言う度量は、まことに目を見張るものがある」と。
マスター:実直な直正公ならではのエピソードですね。
富田さん:
えぇ。また、大名同士が面会する場合、漢詩を詠み合って交換することがありました。この時もそうだったんですが、宴の席上で直正公が斉昭公に送った詩の一節には、「遥かに北海の雲を呼ぶことを嘆いています」という意味のフレーズがあります。北海、つまり蝦夷地の雲を遠く眺めているだけなのは嘆かわしいというのですから、直正公は25歳にして蝦夷地開拓への関心を抱いていたものと思われます。実際、この2年後に、側近の永山十兵衛が東北調査に赴いています。永山は調査旅行中、斉昭公のお膝元・水戸にもちゃんと立ち寄っています。斉昭公は直正公に、馬を手なずけるようにとか突然厳しい注文をつけたように、他人の腹の中を探るような一面があったと言われていますから、宴の席上でも、建設的な議論というよりはお互いの手のうちの探り合いだったのかもしれませんね。
ただ斉昭公にとって、自分より14歳も年下の九州の一外様大名が「蝦夷地に注目しています」なんてことをさらっと言うわけですから、「この男、ただ者ではない」と感じたかもしれませんね。
マスター:そうですね~。そのほかにも交流はあったんですか?
富田さん:
はい。斉昭公に37名いた子供のうち、多くの男子は養子に出ています。五男が鳥取藩主・池田家、七男が一橋徳川家、八男が川越藩主・松平家という有力大名家を継ぐことになったんです。五男が継いだ池田家は直正公のお母さまの実家。一橋家を継いだ七男というのが、のちに最後の将軍となる徳川慶喜。そして、川越藩主になった八男というのが、直正公の愛娘・貢姫さんと結婚した松平直侯公なんです。徳川一門と鍋島家は、こういう深いご縁でつながっていたんですね。まぁ、いずれにしても、競馬の予想も奇をてらうことなく、素直に考えてみたらどうですか。じゃ、ご馳走様でした。
マスター:
ありがとうございました。直正公と、水戸のお殿様か・・・。明日のレースも、粘り強~く、予想を練ってみましょうかね。
第17回 直正公の盟友「島津斉彬(しまづ・なりあきら)」(2017年11月1日放送)
富田さん:こんばんは~、マスター。
マスター:やぁ、富田さん。いらっしゃい。
富田さん:おや!?お鍋なんか出して、何のお料理ですか?
マスター:
いやぁ、秋の深まりと共に、どうしても石焼き芋が食べたくて。最近流行のガスでも美味しく焼き芋が出来る鍋を、ポチッと買っちゃいましてねぇ~。
富田さん:
確かに、この時期のさつまいもは、格別ですもんね。いつもレトロな道具を使っているマスターにしては、最新技術の導入ですね。そうだ、きょうは、直正公の盟友・島津斉彬公を紹介しましょう。
マスター:島津家というと、鹿児島の・・・。
富田さん:
はい。幕末日本のビッグネーム、鹿児島・薩摩藩主の島津斉彬公です。実は、直正公と斉彬公って血縁関係って、知ってました?
マスター:え!?そうなんですか?
富田さん:
えぇ。直正公の母上幸姫(さちひめ)さまと、斉彬公の母上弥姫(いよひめ)さまは、共に鳥取藩主・池田家の出身で姉妹。つまり直正公と斉彬公は「いとこ」の関係にあたるんです。
マスター:なるほど。
富田さん:マスター、あの直正公の愛する長女といえば?
マスター:富田さんのお話にも何度も出てきた「貢姫さん」?
富田さん:
そう、貢姫さんは幼い時、鳥取藩主・池田家の方と婚約するんですが、そのご縁をつむいだのが、斉彬公だったんです。
マスター:鍋島・池田、そして島津という大大名の間が、深いご縁で繋がっていたんですね。
富田さん:
えぇ。こうしたご縁もベースにあって、直正公は5歳年上の斉彬公とは深い間柄で、直正公の伝記を記した久米邦武は「直正公が最も尊敬した大名こそ、斉彬公である」と書き残しています。
マスター:ほぅ。まつりごとでは、どうだったんでしょうか?
富田さん:
はい。この2人が共通して認識していたことは、国防とか科学技術の発展です。佐賀藩は長崎港の警備を担っていましたが、薩摩にも海があって、琉球が近いですから、直正公と斉彬公はともに海の防衛に敏感で、西洋式の大砲や軍艦の必要性を感じていました。佐賀藩は精煉方で理化学分野の科学実験や研究を進めていましたが、薩摩藩でも集成館という場所に反射炉を建造して、大砲や小銃を造ったり火薬やガラスの製造をしていました。また佐賀藩では、日本初の実用蒸気船「凌風丸」を建造しましたが、一方、薩摩藩では洋式軍艦「昇平丸(しょうへいまる)」を造っているんです。
マスター:いい意味で、競い合っていたんですね。
富田さん:えぇ。直正公が、薩摩に使者を派遣した時の手土産が、精煉方で作った電信機だったこともあります。
マスター:当時、最新の「ハイテク機器」をプレゼントしたんですね。
富田さん:
もちろん、一般的な贈答品のやりとりもしています。ある時、直正公は狩りで得た獲物の鳥を塩漬けにして贈りました。その時の斉彬公からのお礼の手紙には「貴重なお品を頂き、かたじけない。同封の手紙に、最近は特別楽しいこともなく過ごしていると書かれていましたが、実は大砲関係の分野では、相変わらず楽しんでおられるのではないですか」と直正公の心中を察する言葉がありますから、技術研究についてはお互いに意識を共有していたようですね。
マスター:佐賀と薩摩。本当に深い絆で繋がっていたんですね。
富田さん:
えぇ。明治維新1年前の1867年、パリで開催された万国博覧会に日本が初めて参加しました。この時、幕府のほかに日本から出展したのは佐賀藩と薩摩藩だけだったんです。このパリ万博が閉幕したのは11月3日。あさってでちょうど150年です。この記念すべき年に、当時の雰囲気と歴史を知ることができる特別展「パリ万博と佐賀藩の挑戦」が、(2017年)11月12日まで佐賀城本丸歴史館で開かれていますよ。お出かけになってはいかがですか?じゃあマスター、ご馳走様でした。
マスター:
ありがとうございました! フランスで行われた万博かぁ。お!お芋が焼けたようですね。アツツ。この皮の"ぱり"っとした感じがたまりませんね~。
第18回 古川松根と並ぶ側近「千住大之助(せんじゅ・だいのすけ)」(2017年11月8日放送)
富田さん:こんばんは~、マスター。
マスター:やぁ、富田さん。いらっしゃい。
富田さん:ん!?おやつの時間ですか?
マスター:いやぁ、バルーンも唐津くんちも終わってしまって、ポッカリ心に開いた穴を埋めようと思いましてね・・・。
富田さん:それで、辛子蓮根を食べてたんですね。そうだマスター、古川松根って覚えてますか?
マスター:確か、直正公が亡くなった3日後に殉死したという・・・。
富田さん:
そうです。側近中の側近でしたよね。その古川松根と並ぶほど直正公が頼りにし、御側に仕えた人物が、きょうお話しする「千住大之助」です。彼は熊本に留学して、佐賀に戻ってからは藩校・弘道館の指南役にもなり、高い学力で知られていました。
マスター:う~ん。
富田さん:
千住の若い時の先生が、直正公の側近でもあった、あの永山十兵衛。マルチな芸術肌の古川松根とは違って、学問を得意としたのが千住でした。28歳の頃から直正公に側近として仕えること、勤続30年。人生の大半を直正公と共に過ごしたことになります。
マスター:直正公の信頼も厚かったんでしょうね。
富田さん:
えぇ。先週お話しした、直正公が従兄弟にあたる薩摩藩主・島津斉彬公のもとに、佐賀藩内で製作した電信機を手土産として送った時、その使者を務めたのが千住。もう一人は、あの佐野常民でした。その後、実現はしなかったんですが、千住は直正公からアメリカ行きを命じられています。さらに直正公が隠居した翌年の1862年、薩摩の島津久光が、勅使に随行して江戸に行き、幕府政治の改革を要求するという大事件が起きます。
マスター:ほぅ。
富田さん:
有力な外様大名が政局を動かす時代。これを見た同じ九州の福岡藩と熊本藩は、佐賀藩に朝廷と幕府の調整役を期待します。直正公は自ら望んだわけではありませんが、調整役のオファーがかかるんです。そこで直正公は、事前に二つの藩と調整を図るため、水面下で熊本に使者を派遣します。それを務めたのも千住大之助でした。
マスター:まさに「八面六臂(はちめんろっぴ)」の活躍ですね。
富田さん:
えぇ。さらにそれだけではありません。直正公の長女・貢姫さんは埼玉の川越藩主に嫁ぎましたが、二女の恒姫(つねひめ)さんが嫁いだのが熊本藩主の細川家。この時、細川・鍋島ご両家の事前調整役も千住が務めています。
マスター:なるほど。
富田さん:千住は信頼も厚くて、学識もありますから、直正公も安心して任せられたんでしょうね。
マスター:しかし、そんな優秀な側近も、主(あるじ)との別れの時が来ますよね。
富田さん:
はい。直正公が病で亡くなった後、殉死した古川松根とは違う道を選びます。千住は、7年の歳月をかけて直正公に関する歴史書を編纂するんです。そしてこれが形となった4ヵ月後に、64歳で亡くなります。この史料は、今でも幕末の佐賀藩を研究する上で最も基本的な文献の一つとして広く読まれていますし、僕がマスターにお話ししているエピソードの多くは、この本で読んだことなんですよ。
マスター:そうなんですね。
富田さん:
ところで、千住大之助は、直正公の大切な交渉役として何度も熊本に派遣されました。そんな熊本のやきものに触れることのできる絶好の機会が、有田の九州陶磁文化館で開かれていますよ。(現在は終了)タイトルは「熊本のやきもの」展。佐賀の陶磁器とは一味違う名品に出逢えるチャンスですから、お出掛けになってはいかがですか?じゃあ、マスター、ご馳走様でした。
マスター:
ありがとうございました。熊本のやきものですか。辛子蓮根に、馬刺し。阿蘇の赤牛に天草大王・・・。食欲の秋を彩る、ぴったりな器が見つかるかもしれませんね~。
第19回 縁戚関係の深い大名「伊達宗城(だて・むねなり)」(2017年11月15日放送)
富田さん:こんばんは~、マスター。
マスター:やぁ、富田さん。いらっしゃい。
富田さん:おや!?カタログショッピングですか?
マスター:えぇ。お正月用のおせちの注文をしておこうかと思いましてね。何せ、親類縁者がずら~っと集まるもので。
富田さん:そうなんですね。じゃあきょうは、直正公と深い縁戚関係にあった大名「伊達宗城」を紹介しましょう。
マスター:お願いいたします。
富田さん:
直正公の数多い兄弟姉妹のうち、お姉さんの猶姫(なおひめ)さまの結婚相手が今回お話しする、愛媛県・宇和島8代藩主の伊達宗城公です。直正公より4歳年下ですが、義理のお兄さんという間柄。しかも宇和島藩の5代と7代藩主の正室も鍋島家から嫁いでいますから、伊達家は特にご縁の深い大名家でした。
マスター:へぇ~。
富田さん:
宗城公は軍事に詳しい長州藩士の大村益次郎(おおむらますじろう)を招いたりして、日本の近代化とか、西洋式軍隊の導入などを推進しました。また、愛媛も海に面していることから、海の防衛についても早くから関心を抱いていました。マスター、反射炉に代表される佐賀藩の大砲づくりのことは、ご存じですよね?
マスター:ん…も、もちろん!
富田さん:
外国船が頻繁に来航する時代にふさわしい備えとして、長崎に新しい砲台を築く必要性を、直正公は幕府に訴え出ます。しかし、幕府からは「必要ない」とのお返事。直正公は何度も反論の文書を提出して食い下がります。
マスター:直正公らしい行動ですね。
富田さん:はい、そしてこの時、直正公が自らの熱意を伝えるため、手紙を送った相手が宗城公でした。
マスター:なるほど。
富田さん:
その内容は、「台場は必要ないという幕府からの返事に対し、私は誠に嘆き悲しみ憤っています。納得できません。今回の私の主張は、そもそも決して私事ではなく、我が国の将来のためを思ってのことですから、幕府から拒まれても、私が呼吸している間は、何度でも主張を貫いて、お願いし続ける覚悟です」と。
マスター:う~ん。
富田さん:
義兄弟として、また海防の必要性を理解してくれる同士として、直正公が厚い信頼を寄せていた様子がうかがわれますよね。
マスター:そんな直正公の熱意に対して、宗城公はどう応えたんですか?
富田さん:
はい。宗城公は、幕府の幹部である老中・阿部正弘の自宅に出向いて、こう伝えます。「このたびの台場築造の件で、鍋島殿の主張が却下されたと聞きました。彼は国や公のためを思い、幕府からの風当たりが強くなることも顧みず、忠義を尽くすため、自分の考えを素直に申し上げているのですから、私も彼に同意します。どうかお考えを改めて頂けませんでしょうか」と。
マスター:それを知った直正公は嬉しかったでしょうね。
富田さん:
えぇ。宗城公のこの行動を知った直正公は、すぐにお礼状を出しています。「早速ご理解頂き、阿部老中に対して援護射撃して下さり、誠にそのご厚意には御礼の申し上げようもありません」と。
マスター:本当に、お互いをリスペクトしていたんですね~。
富田さん:
えぇ。伊達家には、直正公が長崎でオランダ軍艦に乗船したときの様子を、あのマルチ芸術家の側近・古川松根が描いた記録画の写本が残されていたり、鍋島焼があったり、鍋島緞通の上に座る伊達家ご一家の集合写真も残されていまして、鍋島家との深い関係を今に伝えています。あ、もうこんな時間だ。マスター、ご馳走様でした!
マスター:
ありがとうございました。さてと、おせちの注文の途中でしたね。カズノコ、キントン、黒豆に・・・あれ?あの卵焼きに似たぐるぐる巻いたもの、何て名前でしたっけ?"だって"、年に一度のことですから、忘れちゃいますよね~。
第20回 直正公の国防論を理解した大老「井伊直弼(いい・なおすけ)」(2017年11月22日放送)
富田さん:こんばんは、マスター。おや!?また頭を抱え込んで、トラブルですか?
マスター:いえね、彼女とのLINEでちょっとした行き違いがあって、怒らせたみたいなんですよ。
富田さん:まぁ、文章だけのやりとりだと、誤解が生まれやすいですもんね。マスターの気持ち、よく分かりますよ。
マスター:いやぁ、私のことを、そこまで分かってくれるのは富田さんだけですよ。
富田さん:そうだ、きょうは、直正公の考えをよく理解していた大物「井伊直弼」を紹介しましょう。
マスター:お願いいたします。
富田さん:
江戸幕府の最重要ポスト「大老」という役職にいた井伊直弼。開国問題の時、「外国を撃退すべき」という水戸の徳川斉昭たちと対立。大老として、水戸藩士たちを処罰する「安政の大獄」を断行しますが、反感を買った水戸の浪士たちに暗殺され、46歳で亡くなりました。
マスター:教科書で見ましたよ!「桜田門外の変」ですね。
富田さん:
そうです。そんな政局の中枢でバトルを繰り広げた直弼は、人付き合いについてこう語っています。「さてさて、世渡りと申すものは、中々むつかしきものに候。大名、広く付き合い申さず候得共(そうらえども)、我が心の底をよく存じくれ候者(そうろうもの)は、会津松平と佐賀。この二人をおいてまず、これ無く候」。「佐賀」とはもちろん直正公のことです。
マスター:へぇ~。そこまで言うほど、直正公とは理解し合っていたんですか?
富田さん:
はい。井伊直弼は、時代の流れに応じて外国との貿易も必要と考えていました。こうした中、直正公は手紙で井伊直弼にこう伝えています。「国防が整った上での開国はよいとして、あなたが仰るように、備え不十分での開国は問題です。このことで苦心しているのは私と同じですね」と。この頃の直正公は、海軍を創設して蝦夷地を開拓、さらには海外進出まで考えていたんです。そこで海軍の港が必要となるため、直正公は、当時幕府領だった、熊本の天草を佐賀藩に預けて欲しいと井伊直弼に願い出ます。
マスター:天草ですと、長崎にも近いし、漁業も盛んで豊かな所ですね。
富田さん:
えぇ。直弼と直接面談した後に直正公は、部下に手紙を送ります。「天草の一件は、十に九分までは、手に入るべくと存ぜられ候」。つまり90%まで手に入れたのも同然だと、手応えを感じていたんですね。
マスター:結局、天草は佐賀藩に預けられたんですか?
富田さん:
いえ。この面談の半月後に、桜田門外の変が起き、井伊直弼は暗殺されます。当然、話は流れてしまい、代わりに佐賀藩海軍の拠点として三重津海軍所が発展していくんです。
マスター:なるほど。
富田さん:
直正公にとって、年齢も1歳違いという同世代で、しかも海の守りに関して「話の分かる」大老を失ったのは大きな痛手でした。直弼の暗殺直後、幕府は直正公に幕政に参画するようオファーを出します。しかし直正公は断って、すぐに江戸を立ち、兵庫県の港から蒸気船で佐賀に帰っています。
マスター:ほぅ。
富田さん:
この時、直正公は、愛娘・貢姫さんに「無事に明日、兵庫から乗船できそうです」と短い手紙を送っています。井伊直弼と近い立場にいる大名とも見られていた直正公が、やや自らの身の危険を感じていたことをうかがわせる貴重な一通です。
マスター:確かに。
富田さん:
マスター、さっき言ってた彼女さんとの誤解。きっと誠意を見せれば、分かってくれると思いますよ。じゃあ、ご馳走様でした。
マスター:
ありがとうございました~。「明日のお休み、暇だから遊んでやるぜ」。この文面がまずかったんですかねぇ~。さて、何と、"言い直すっけ"?
第21回 役人の鑑「池田半九郎(いけだ・はんくろう)」(2017年11月29日放送)
富田さん:こんばんは、マスター。
マスター:やぁ、富田さん、いらっしゃい!
富田さん:おや!?年賀状の準備ですか?
マスター:えぇ。結構枚数が多くて、整理を頼める有能な部下でもいればいいんですけどねぇ~。
富田さん:
その気持ち、よく分かります。じゃあきょうは、直正公の部下の中でも、真面目で行動力があり、テキパキと何でもこなしていた佐賀藩士・池田半九郎を紹介しましょう。
マスター:お願いします。
富田さん:
直正公が藩主に就任して6年目、直正公は、家の格にこだわらず、中堅層を重要ポストに登用し始めます。その代表格が池田半九郎です。まず、城下町の暮らしを管理する「町代官」になったのを皮切りに、藩内のお寺や神社を管理する「寺社方(じしゃかた)」も兼任。長崎警備を命じられた時には「自分は警備については不案内です。事前に現地で状況を把握する必要があります」と言って、20日間の休暇願を出しているくらい、とにかく真面目なんです。やがて藩政の中枢に参画した半九郎は、藩校である弘道館のお世話係も担います。さらに税収を扱う御蔵方頭人(おくらかたとうにん)の兼務を命じられた時には、流石にこう漏らします。「数々の役、相兼ね候ては、なおさら御用弁仕らず、心痛至極に御坐候」と言って、勘弁して欲しいと願い出ているんですね。
マスター:いつの世も、できる人には仕事がまわって来るものなんですね。
富田さん:
そうですね。続いて半九郎は「大目付役」に就任。翌年には県産品奨励のための「国産方(こくさんかた)」の仕事も命じられ、財政が混乱していた鹿島藩の立て直し役にもなるんです。
マスター:忙しすぎですね。
富田さん:いえいえ、築地反射炉の築造が始まるその翌年からが本番です。
マスター:えぇっ!?
富田さん:
半九郎は「増築方」という、大砲や砲台の整備事業を担うとともに、警備の方法について福岡藩や長崎奉行との交渉役にもなります。そして翌年1853年、浦賀沖にペリーが来航します。
マスター:ペリー来航と、半九郎が何か関係あるんですか?
富田さん:
この時半九郎は「アメリカ船が、当時唯一外国との窓口になっていた長崎に向かう可能性がある。しかも蒸気船なので足が速いはず」と考え、すぐに長崎に出張しています。結局、ペリーが長崎に来ないことが分かって佐賀に戻った数日後、今度はロシア船が開国を求めて長崎に来航します。半九郎は「不測の事態が起きるとすれば、ロシア船が入港した直後。であるなら、船を砲撃する機会はきょうか明日しかない。万が一遅れをとれば、武士の名折れである」と日記に記しています。最新の西洋式砲台を築造していた佐賀藩ですが、警備にあたる半九郎のモチベーションは…
マスター:古風な「武士道」だったわけですね。
富田さん:
そうなんです。さらに、ここからまたすごいんです。出張命令を受けた半九郎は「船」で長崎に移動します。鉄道もバスもなかった当時、佐賀から長崎まで、陸路で行くと2~3日を要していました。そこで彼は、有明海に出て、船で諫早へ上陸。そこから陸路を使い佐賀~長崎間を、なんと23時間で移動したんです。
マスター:へぇ~。本当、すごい人だったんですね。
富田さん:
そうですね。池田半九郎はあまり有名ではありませんが、大事なポストをいくつも兼任した重要人物だったんです。幕末佐賀藩の人材の層の厚さを感じさせますよね。マスターにも、優秀なアシスタントが付くといいですね。じゃあ、ご馳走様でした。
マスター:
ありがとうございました。さてと、来年の年賀状の準備を続けますかね。それにしても、半九郎のようなできる人材がいたら、シッポをふって付いて行くんですがねぇ。
第22回 北海道開拓の父「島義勇(しま・よしたけ)」(2017年12月6日放送)
富田さん:こんばんは~、マスター。
マスター:やぁ、富田さん。いらっしゃい。
富田さん:おや!?ピッケルに、リュックまでしょって、冬山登山ですか?
マスター:いや~、そうなんですよ~。そこに山がある限り・・・男のロマンですねぇ。
富田さん:
う~ん、それじゃあきょうは、学力も優秀で、体の丈夫さと健脚ぶりもよく知られていた直正公の側近・島義勇を紹介しましょう。
マスター:お願いいたします。
富田さん:
札幌では「北海道開拓の父」として、今も称えられている島義勇。直正公のお側に仕えていた33歳の時、江戸に遊学。この際、水戸藩士・藤田東湖(とうこ)と親交を持ち、蝦夷地開拓の必要性についても議論したようです。また、ちょうどこの頃、水戸徳川家から養子に出て、川越藩主となっていた松平直侯(なおよし)公と、直正公の長女・貢姫さんの結婚話が浮上します。その調整役を担ったのも、水戸側は藤田東湖、佐賀側は島と言われているんですね。
マスター:へぇ~、かなりの活躍ですね。
富田さん:えぇ。さて先々週、井伊直弼大老の同意を得て、直正公が、天草を佐賀藩の軍港として活用しようとした話をしましたよね。
マスター:えぇ、えぇ。
富田さん:
直正公は天草の漁業の利益で大型船を建造して、それを運用して長崎警備を充実させ、さらに蝦夷地開拓や海外進出まで考えていました。蝦夷地に着目したのは、海産物などから得られる利潤という経済面と、ロシアの脅威という観点から、軍事面でも重要な土地だったからなんです。
マスター:まさに「先見の明」ですね。
富田さん:
はい。それまで佐賀藩では、古賀穀堂や永山十兵衛によって東北を調査していましたが、ようやく蝦夷地調査に踏み出した直正公が、その指示を下したのが、蝦夷地の意義をきちんと理解し、健脚でも知られた島義勇でした。函館に上陸した島は、小樽・石狩・釧路・襟裳・千歳・室蘭など沿岸部をぐるっと回って、地理や漁業・林業・鉱物資源の調査や、アイヌの風習などをつぶさに見聞します。この間、わずか4ヵ月ほどでしたが、樺太にも足を延ばしているんですね。
マスター:へぇ~、すごいやる気と体力ですね。
富田さん:
はい。やがて明治2年、直正公は「開拓使」という役所の初代長官、島は判官という職員に任命されます。現地・北海道に赴いた島の仕事は、開拓の本拠地を建設することでした。それが現在の札幌です。ところが現地では、江戸から1,500俵のお米を積んだ船が沈没するなど食糧不足に悩まされ、お米の少ない北海道で、どうにか備蓄米を現地調達するなど苦労を重ねます。そうした厳しい状況の中、島は、札幌の建設を進めますが、わずか4ヵ月で解任されて東京に召喚されることになります。島の北海道滞在は短いものではありましたが、直正公へ宛てて、自らの想いを詠んだ漢詩をしたためます。そこには「今から建設するこの町は、いつの日か、世界一の大都市になるだろう」という島の気概が表されていました。
マスター:その想い、おおむね達成されていますよね。
富田さん:
えぇ。札幌の人口は、昭和15年に函館を抜いて北海道一位となり、全体の1/3以上の人口を擁する大都市として今も発展を続けています。
マスター:島は誇るべき“佐賀んもん”ですねぇ。
富田さん:
えぇ。この島の功績を称え、後世に伝えようと銅像建設のための寄附金が現在募集されています。銅像は来年の秋、佐賀城公園西側の一角に完成予定だそうです。もし、寄付に興味がおありでしたら、肥前さが幕末維新博覧会のHPを見てみるか、県内の文化施設などにチラシが置いてあるそうですよ。あ、もうこんな時間だ。マスター、冬山は初心者には難しいですから、行くんだったら気を付けて下さいね。じゃ、ご馳走様!
マスター:
ありがとうございました。う~ん、今の島義勇の話を聴いて、冒険心に火が付きましたよ~。まずは、近い所から・・・。うん!「白山(しらやま)」から登ってみよう!
第23回 直正公の主治医「大石良英(おおいし・りょうえい)」(2017年12月13日放送)
富田さん:こんばんは~、マスター。
マスター:(モグモグ)やぁ、富田さん。(飲み込む音)いらっしゃい。
富田さん:
おや!?お食事中でしたか?かつ丼大盛りですね。ごゆっくりどうぞ。僕は、新聞でも読んでいますから・・・って、もう食べ終わっちゃったんですか?
マスター:ハハハ。いやぁ、ゆっくり食べていると、兄に狙われるという子供の頃からの癖で・・・。
富田さん:
う~ん。早食いは、体に良くないですよ。そうだ!きょうは、直正公の主治医として、治療のみならず生活習慣まで管理していたお医者さん・大石良英を紹介しましょう。
マスター:ほぅ、お願いいたします。
富田さん:
大石良英は、白石(しらいし)鍋島家という、今のみやき町に本拠地を持っていた重臣の家臣だったんですが、その学力と技術力の高さ、そして温厚な人柄が評価され、直正公が三十路を迎えた頃、主治医に採用されます。大石は特に蘭学に長けていて、医者でありながら侍の身分に召し抱えられました。これは、佐賀藩では神埼出身の伊東玄朴(いとうげんぼく)に次いで、良英が2人目のケースです。そして玄朴は江戸で、良英は佐賀で、それぞれ活躍することになるんです。
マスター:例えばどんなことをしたんですか?
富田さん:
はい、直正公が、天然痘予防のための種痘を広めた時、ご自身のお子様たちにも種痘を接種しているんですが、江戸にいた可愛い長女・貢姫さんに接種したのが伊東玄朴。佐賀にいた大事な跡取り息子・直大公に摂取したのが大石良英でした。
マスター:蘭学を得意としていた良英、他にどんな働きをしたんですか?
富田さん:
例えば、反射炉の建造が始まった頃、藩では、西洋式の大砲や弾薬も製造します。すると、軍隊の練習も洋式で行わないといけませんから、佐賀藩では、その基礎となる西洋の学問などを学ぶ蘭学寮を、今の八幡小路に作ります。当時の蘭学は、とくに医療分野で先進的に導入されていましたから、良英は、蘭学寮と同じ敷地内に住んで、西洋医学を教えました。これが発展して、現在の(県立病院)好生館として整備されていくんですね。
マスター:幕末佐賀藩にとって、ほんと貴重な人材だったんですね。
富田さん:
えぇ。さて、40代後半を迎えて、体調を崩しがちだった直正公。50歳になった年の年末には、風邪をこじらせて高熱を出し、一時は命にかかわるほどの危篤状態になりましたが、良英の治療で一命を取りとめています。その後、危険な状態は脱したものの、直正公は胃腸が弱ったまま。もとから直正公は、どちらかというと神経質でせっかちなタイプ。
マスター:確か、青年期に精神的にまいってしまったこともありましたよね。
富田さん:
はい。また、お食事も早食いで、お一人で黙々と召し上ることが多かったと伝えられているんです。そこで良英はこうアドバイスします。「食べ物はしっかり噛んで、飲み込むようにして下さい。もしくは、人と話をしながらでしたら、ゆっくり食べられますよ」と。
マスター:何だか子どものしつけみたいですね。
富田さん:
えぇ。でも結局、おかわりの時を待つ時間だけ話をする程度で、箸を手にしている間の早食いは変わりませんでした。そこで良英が「いやいや、そうではなくて、食べ物をしっかり噛みながらお話をなさって下さい」と言うと、直正公は「良英の言う食事の仕方は、甚だむずかし」、こう漏らします。
マスター:直正公の早食いには、良英もほんと手を焼いたんですね。
富田さん:
えぇ。また当時、直正公に供される魚や鶏肉は、基本的に骨なしなんです。つまりお肉部分だけが出されていたんですね。そこで良英は、骨や皮からこそ栄養が沁み出るのだからと、調理係に改善を求めたりもしています。また直正公は、サツマイモ・里いも・かぼちゃなんかが大好物。甘いものにも、目がなかったもんですから虫歯も多いんです。それに、極上の嬉野茶を沸かして渋~くして苦いのを飲むのがお好き。こんな直正公の食生活の改善にも心血を注いだのが、大石良英でした。マスターも、健康のためにもよく噛んで、ゆっくり食べた方がいいですよ。・・・って今度はカツカレー特盛を食べてるし!もう、知りませんよ。
マスター:
ああ、富田さん…。(飲み込む音)ありがとうございました。お!Wカップ焼きそばのお湯も沸きましたよ~。
第24回 直正公の継室「筆姫(ふでひめ)」前編(2017年12月20日放送)
富田さん:こんばんは~。マスター。
マスター:やぁ、富田さん。いらっしゃい。
富田さん:おや? お手紙ですか?
マスター:
えぇ。最近気になっているアイドルにファンレターを出そうと思うんですが、何せ親子ほど年が離れているもんで・・・。
富田さん:
まぁ、愛おしく思う気持ちに、年の差は関係ありませんよ。じゃあ、きょうは、直正公とは年の差カップルになった再婚相手・筆姫さまを紹介しましょう。
マスター:お願いします。
富田さん:
直正公の最初の結婚相手だった盛姫さまは、若くして37歳で病のため亡くなります。その盛姫さまの病没から間もない頃、江戸城に登った直正公は、越前つまり福井藩主の松平春嶽公と席を同じくします。そして、越前さまにこう話しかけます。マスター、直正役をお願いします。
マスター:
え!?あ、あぁ、分かりました。「越前さま、ちょっとお尋ねです。ご実家・田安(たやす)徳川家にお姫さまはおられますか?」
富田さん:「えぇ、柳川藩主立花家に嫁いでいる姉と、それから妹も一人います。ま、妹の方は、まだ独身ですけど」
マスター:(直正公)「その妹さんのお年は?」
富田さん:(春嶽公)「18ですが」
マスター:(直正公)「ビジュアルは?」
富田さん:(春嶽公)「まぁ人並みです。ただ性格は温和で、物を書くことが好きですよ」
マスター:(直正公)「ぜひ、私の妻にください!」・・・って、唐突ですね。
富田さん:
えぇ。最初の正室・盛姫さまとの縁談が持ち上がったのは、直正公が3歳の時で、お家の方で勝手に決めた感じでしたので・・・。
マスター:再婚相手探しには、直正公自身が前のめりになっていたんですね。
富田さん:
えぇ。やがて実家の田安徳川家や本家、つまり徳川将軍家からも認められて、直正公は16歳年下の筆姫さまと再婚することになりました。筆姫さまが嫁いできたのは、現在の日比谷公園にあった佐賀藩の上屋敷。そこには、盛姫さまの元で養育されていた長女・9歳になった貢姫さんがいました。盛姫さまが37歳で亡くなったその年のうちに、今度は18歳という、めっぽう若いお母さんと一緒に住むことになったんですね。
マスター:貢姫さんは、ちょっと複雑な心境だったでしょうね。
富田さん:
えぇ。ただ筆姫さまのことは、お母さんというよりも、むしろちょっと年の離れた、頼れるお姉さん的な存在だったかもしれませんね。
マスター:うん。
富田さん:
さて、越前様こと松平春嶽公と、直正公のお姉さんが嫁いでいる宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)公は、ともに水戸の徳川斉昭(なりあき)公と気の合う仲でした。そこで、越前松平と伊達のお二人が間をとりもって、徳川斉昭公のお子さんの結婚の面倒をみたと言われているんですが、そのお相手が、実は貢姫さんなんです。
マスター:「縁は異なもの」ですね~。
富田さん:
そうですね。やがて江戸の治安の悪化や参勤交代の制度改革などによって、従来は江戸屋敷在住が原則だった藩主の正室が帰国してよいという規制緩和が行われます。筆姫さまも例に漏れず、佐賀城に引越すこととなりました。34歳にして生まれて初めての佐賀入り。というか、田安徳川家のご出身ですから、たぶん江戸を出たことすら1度もなかったと思います。
マスター:住み慣れた江戸を離れるのは寂しかったでしょうね。
富田さん:
えぇ。そこで筆姫さまの「せめて、江戸の桜の花を見ながら移動したい」というご希望で、旧暦の2月下旬、今の暦だと4月上旬に江戸を出発して、東海道五十三次から山陽道を通って、約1ヵ月半後、無事に佐賀城に到着しました。ちょうど同じ時期に、貢姫さんも嫁ぎ先の江戸の川越藩邸から、国元の川越に引っ越します。マスター、川越での貢姫さんの様子、覚えてますか?
マスター:確か、なかなか馴染めなかった?
富田さん:
そう!それで直正公は励ましの手紙を頻繁に送っていましたよね。その一方で、実は佐賀に来た筆姫さまには、もっと大きな問題が待ち受けていたんです。あ、もうこんな時間だ。続きはまた今度!
マスター:えぇ~!気になる~。そうだ!来週にはお話の続きが聴けるように、サンタさんにお願いしよう!
第25回 直正公の継室「筆姫(ふでひめ)」後編(2017年12月27日放送)
富田さん:こんばんは~、マスター。
マスター:やぁ、富田さん。いらっしゃい。お待ちしていましたよ!
富田さん:直正公の再婚相手・16歳年下の筆姫さまのお話の途中でしたね。
マスター:
えぇ。江戸屋敷を離れ、佐賀城に入った筆姫さまに、大きな問題が待ち受けていた・・・って、早く続きを聞かせて下さいよ。
富田さん:
分かりました。佐賀に引っ越したばかりの筆姫さまの様子を、直正公は長女・貢姫さんに宛てた手紙でこう伝えています。「佐賀に来て以来、どこへも外出せず、寂しい日々を送っているようです」
マスター:やっぱり、江戸生まれ・江戸育ちの筆姫さまにとって、佐賀暮らしは、すぐには馴染めなかったんでしょうね。
富田さん:
しかも、人間関係でさらに問題が起きていたんです。直正公の手紙はこう続きます。「梅井や里という女中たち数人が、きょうにでも江戸に帰りたいと言って、筆姫も困っています。梅井にいたっては、筆姫の髪の手入れもしないので、松浦さんが一人でやっています」と。
マスター:
筆姫さまにお付きの女中さんたちも、みんな江戸に慣れた女性ばかりなので、突然、佐賀という場所に来て、動揺していたんでしょうね。
富田さん:えぇ。結局、仕事をボイコットしていた梅井・里など数人は江戸へ戻ってしまいます。
マスター:正室を佐賀に置きっぱなしにして、女中さんが帰っちゃうんですか!? さすがにそれは筆姫さまも怒ったでしょうね。
富田さん:
そうですね。ところが、しばらくすると少し状況が変わってきます。直正公は貢姫さんにこう伝えています。「筆姫も、ずいぶんと佐賀に慣れて、この間は川上の簗(やな)に行き、ことのほか楽しんだようです」
マスター:「やな」というと、鮎を捕る仕掛けですよね。
富田さん:
えぇ。そこにご家族でお出掛けをして、筆姫も楽しんでくれたようだと、直正公はホッと胸をなで下ろしているんです。直正公は、その後も、筆姫さまを佐賀城下にある鍋島家ゆかりの神社のお祭りにお忍びで連れて行ったり、現在の神野公園にあたる神野御茶屋、筑後川や伊万里、嬉野温泉にまで出掛けたこともありました。
マスター:筆姫さまが佐賀の土地に親しめるように、直正公も色々手を尽くしたんですね。
富田さん:
はい。そんな実直で優しい直正公に、ゆっくりと幸せが訪れます。筆姫さまが佐賀入りした翌年、息子の直大公が結婚して家族が増えます。そして、4年後の1868年、明治元年にあたる年。ついにあの愛しい長女・貢姫さんが実家の佐賀城に戻って来ることになったんです。7歳で江戸に出てから、実に23年ぶりの里帰りが実現したんです。約15年間にわたった直正公からの約200通の手紙も、その直前に終わっています。こうした時代の偶然によって、直正公は愛する佐賀で、正室・筆姫さま、長女・貢姫さん、息子の直大公夫妻や他のお子さまたちなど、短い間ではありましたが、愛する家族に囲まれた最晩年のひとときを過ごしたんです。
マスター:ホームドラマのような、ハッピーな映像が目に浮かびますね。
富田さん:
えぇ。ほどなく直正公は佐賀から東京に移り、そのまま明治4年の正月、病のため58年の生涯を閉じました。直正公亡きあと、筆姫さまはお孫さん2人の面倒をみながら、その後も明治の鍋島家を支え続けたんですね。というわけで、マスター、きょうまで、鍋島直正公をメインにいろんな人物や出来事を紹介してきましたが、いかがでしたか?
マスター:
いやぁ、直正公はもちろん、直正公をとりまく人々の素晴らしさ、そして何より、幕末維新期の佐賀のバイタリティというか、パワーにますます興味が沸きましたね。
富田さん:
それは嬉しいです!もうあと少しで2017年も終わりですが、来年、2018年は明治維新から150年を迎えます。これまでマスターにお話してきたとおり、鍋島直正公をはじめ、佐賀では幕末維新期に活躍した人物がたくさんいますよね。
マスター:うん。
富田さん:
明治維新150年を機に、改めてそうした佐賀の偉人や偉業を振り返って、未来にその志を伝えていこうと、「肥前さが幕末維新博覧会」が来年(2018年)3月から佐賀市を中心に開催されるんですよ。
マスター:それは行かないと!
富田さん:
僕は仕事の都合で、このお店には来れなくなりますが、来年の維新博の会場で、お会いできるかもしれませんね。じゃあ、ご馳走様でした。
マスター:ありがとうございました。「肥前さが幕末維新博覧会」かぁ。お年玉を貯めて、前売券を買わないとですね。
特別番組 明治維新150年 そのとき佐賀は世界を見ていた ~直正交友録スペシャル~(2018年1月3日放送)
富田さん:あけましておめでとうございます。
マスター:いやぁ~、おめでとうございます~、富田さん。
富田さん:今年はいよいよですね~。
マスター:いよいよって?何がですか?
富田さん:
今年、2018年は明治維新から150年を迎えるんです。これまでマスターにお話してきたとおり、鍋島直正公をはじめ、佐賀では幕末維新期に活躍した人物がたくさんいますよね。
マスター:えぇ、えぇ。
富田さん:
今年の「明治維新150年」を機に、改めてそうした佐賀の偉人や偉業を振り返り、未来にその志を伝えていこうと、「肥前さが幕末維新博覧会」が、いよいよ3月から佐賀市を中心に開催されるんですよ。
マスター:そうなんですね。それは行かないと!
富田さん:
マスター、僕が去年お話したことは、どうせお忘れでしょうから、きょうは改めて直正公の生涯を振り返りながら、直正公を取り巻くさまざまな人物を紹介しますね。
マスター:お手数をおかけします。
富田さん:
10代佐賀藩主・鍋島直正公は、文化11年、西暦1814年、現在の日比谷公園がある、江戸の佐賀藩邸で生まれました。幼い直正公の生活面を指導する躾役(しつけやく)は、何人かの女性が担当したんですが、その代表格が、磯濱(いそはま)さんでした。
マスター:確か、すっごく厳しかったとか。
富田さん:
えぇ。例えば、直正公がお庭に出ようとして、自分で足袋を脱ごうとしていると、磯濱さんが一喝。「自らの手で足袋を脱ぐなど、大名に有るまじき行為!」つまり、大名たるもの、お付の者に脱がせなければならないというのです。
マスター:
今の一般的な躾なら逆のような気がしますが・・・。幼い頃から将来、藩主となるためのエリート教育を受けていたんですね。
富田さん:
そうなんですね。そしてその頃から直正公が尊敬していたのが、“佐賀藩祖”と呼ばれる鍋島直茂(なべしまなおしげ)公。幼少の頃に直正公は、藩祖直茂公の教訓書を、毎朝、人に読ませて聴いていたそうです。
マスター:ほぅ~。
富田さん:
そして、直正公が幼少期から生涯を共にした側近・古川松根(ふるかわまつね)の存在も忘れてはいけません。江戸時代の大名家には、藩主のお世継ぎに、お遊び相手を付けるという慣わしがありました。この役には、世継ぎと年齢の近い藩士の息子を選抜して、一緒に生活を送ることで、社会性を育みながらお世継ぎは成長することができたんです。古川松根はマルチな芸術家肌の人物で、和歌も詠めるし、筆を握らせれば絵もうまい。大人になった直正公は松根に頼んで、あの磯濱さんの肖像画を描かせて、プレゼントしたこともありました。
マスター:常に側にいて、確か、松根は直正公が亡くなって3日後に殉死したんですよね。
富田さん:そうなんです。心の底から直正公に仕えていたんですね。
マスター:直正公は、本当に素晴らしい人材に囲まれていたんですね。確か、家庭教師役の・・・。
富田さん:古賀穀堂先生ですね。
マスター:あぁ~、そうそう、そうです。
富田さん:
17歳で藩主になった直正公は、改革に燃え、佐賀城に藩の重臣たちを招集してこう言いました。「佐賀藩の財政再建のためならば、私自身どんな倹約であっても受け入れる覚悟ができています。あとは、あなた方重臣の誰もが気持ちを入れ替え、一致団結し、命をなげうってしっかりと職責を果たしてほしいものです」
マスター:
何とストレートな…。だから、なかなか家臣たちに受け入れられず、両者の間に温度差が生まれた…ということでしたよね。
富田さん:
えぇ。そんな時に、直正公にアドバイスしたのが穀堂先生でした。「佐賀藩には弊害となっている風潮として、妬むこと、決断しないこと、そして、負け惜しみを言う・・・という3つの病があります。これを改善しない限り、佐賀で大事業を成し遂げることはできないでしょう」と。しばらくして直正公は再び重臣たちを集め、こう語りかけます。「佐賀藩の低迷は、まだ若い私の不徳が原因です。ただ、あなたたち重臣の誰もが普段から綿密に話合いをして、私などの智恵の及ばないところを助けて欲しいのです」
マスター:う~ん、これをきっかけに、直正公と家臣たちの間の溝も、少しずつ埋まっていったんですね。
The SAGA Continues…/KEN THE 390, KOHEI JAPAN, DEJI, K DUB SHINE
マスター:この曲、先日、姪っ子から教えてもらったんですがね。
富田さん:
佐賀ゆかりのラッパーや、その筋ではかなり有名な実力ミュージシャンが作った「The SAGA Continues…」ですよね。この曲を聴いているだけでもかなり幕末維新期の佐賀について知ることができますよね。
マスター:えぇ。聞き流すだけで、どんどん歴史が入って来るんですよ!
富田さん:
そ、そうですか。では、そんな幕末維新期に活躍した人物の一人10代佐賀藩主・鍋島直正公のお話を続けましょうか。
マスター:お願いいたします。
富田さん:
藩主となった直正公の周りには、優秀な側近がたくさんいました。直正公より1歳年上のお兄さん・鍋島茂真(なべしましげまさ)もその一人。茂真は側室のお子さまだったため、養子に出て、須古(すこ)鍋島家の当主となりました。直正公が藩主に就任して6年目、佐賀城二の丸が火事で焼失します。その直後、直正公は行政トップにあたる請役当役(うけやくとうやく)という役職に兄・茂真を抜擢し、「藩の学校である弘道館をますます発展させ、良き人材を輩出して欲しい」と頼みました。
マスター:
火災というトラブルをきっかけに、行政トップを交代、藩校・弘道館も充実させるとは、まさに、ピンチをチャンスに変えたんですね。
富田さん:
はい。また、直正公の義理のお兄さんで、武雄鍋島家10代当主・鍋島茂義(なべしましげよし)も直正公の大きな力になっています。突然ですがマスター、ここで問題です。ジャジャン!
マスター:どうしたんですか、富田さん…。
富田さん:直正公が成し遂げた事業で主なものを二つ挙げてください。
マスター:え!?あぁ…確か「日本で初めて鉄製大砲を鋳造したこと!?」、「実用蒸気船をつくったこと!?」ですかね?
富田さん:
マスター、どうしたんですか!?よく覚えていましたね。大正解です!実は、こうした一大プロジェクトも、茂義が大きな役割を果たしているんです。茂義の指揮によって、武雄領では、いち早く西洋砲術の研究が進められていました。中国でアヘン戦争が起きたのと同じ1840年、現在の神埼市にあった台場で、直正公が砲術演習を初めて視察します。当日の陣頭指揮に立つ予定だった茂義は、体調不良のため参加できませんでしたが、この日の演習は、直正公の西洋式大砲への理解を高める上で大きな出来事となりました。さらには、ペリー来航の翌年、直正公は藩内での蒸気船の製造を命じますが、その主任に任命されたのも茂義でした。
マスター:
う~ん。茂義なくしては成し得なかったんですね。大砲や蒸気船といえば、全国的には、今の鹿児島、つまり薩摩も有名ですよね?
富田さん:えぇ、よくご存じですね。
マスター:実は、昔から鈴木亮平君のファンなんですよ。
富田さん:
なるほど~。実は、薩摩藩主の島津斉彬公は、直正公のいとこなんですよ。直正公と斉彬公は共に海の防衛に敏感で、西洋式の大砲や軍艦の必要性を感じていました。佐賀藩が精煉方で理化学分野の科学実験や研究を進めたのに対して、薩摩藩では「集成館」という場所に反射炉を建造して、大砲や小銃を造ったり、火薬やガラスの製造をしていました。また佐賀藩で、日本初の実用蒸気船「凌風丸」を建造したのに対し、薩摩藩では洋式軍艦「昇平丸」を造っているんです。
マスター:いい意味で、競い合っていたんですね。
富田さん:えぇ。また、国防という面では、直正公は、あの井伊直弼とも意見が合いました。
マスター:あぁ、「桜田門外の変」の人ですよね?
富田さん:
えぇ、そうです。大老・井伊直弼は、開国問題に直面した際、「時代の流れに応じて、外国との貿易も必要」と考えていました。直正公は手紙で井伊直弼にこう伝えています。「国防が整った上での開国はよいとして、あなたが仰るように、備え不十分での開国は問題です。このことで苦心しているのは私と同じですね」と。この頃の直正公は、長崎警備にさらに力を注ぐため、西洋式の海軍の整備に取り組んでいました。そこで直正公は、当時幕府領だった、熊本の天草を佐賀藩に預けて欲しいと井伊直弼に願い出ています。
マスター:でも結局、この後、桜田門外の変が起きて、井伊直弼は暗殺されたんですよね?
富田さん:
そうなんです。当然、この話は流れてしまい、佐賀藩海軍の拠点として、現在は世界遺産となっている「三重津海軍所」が発展していくんです。
マスター:そういうところで歴史は繋がっていくんですね。
プリズムの海/松谷さやか
富田さん:
佐賀県庁の展望ホールで開かれている、夜景プロジェクションマッピング「星空のすいぞくかん」のテーマソングですよね。
マスター:
実は、この曲「プリズムの海」を歌っている、佐賀出身の松谷さやかちゃんは一時期、そこのピアノで弾き語りをしてもらっていたんですよ。
富田さん:ほんとですか!?
マスター:今は東京で頑張っていて、時折、手紙も届きますよ。
富田さん:
へぇ。意外だなぁ。意外と言えば、直正公は藩主としての一面だけでなく優しい父親、夫としての側面もありました。
マスター:確か、愛娘の貢姫さんとは、しょっちゅう文通していたとか?
富田さん:
そうです。独身の頃はもちろん、貢姫さんが結婚した後も、だいたい月1のペースで文通を続けていたんです。その手紙およそ200通が現在も大切に保管されていて、直正公のプライベートな部分を今に伝えています。
マスター:例えばどんなエピソードがありましたっけ?
富田さん:
はい、直正公の跡継・直大公の心身を鍛えるために、1日40km以上もの「遠足」に連れ出したことがありました。この時には、さすがに直正公も堪(こた)えたようで、江戸にいる長女・貢姫さんに、「ことのほか、山、険しく、大くたびれ致し申し候」と伝えています。
マスター:
青年期の息子さんの前では厳格なお父上も、愛娘には、「男はつらいよ」と本音を漏らしていたんですね。そういえば、奥さまも大事にされていたようですね。
富田さん:
はい。直正公が12歳のときに結婚した盛姫さまは、若くして病のために亡くなり、筆姫さまという方と再婚します。直正公は佐賀に馴染めなかった江戸育ちの筆姫さまを気遣い、鮎捕りやお花見に連れ出したりしました。
マスター:本当にお優しい方だったんですね。
富田さん:
えぇ。そして、直正公は晩年、佐賀から東京に移って、そのまま明治4年に58年の生涯を東京で閉じました。佐賀だけでなく、当時の日本の多くの人に影響を与え、またたくさんの人から影響を受けた鍋島直正公の生涯を、駆け足で振り返ってみましたが、どうでしたか、マスター。
マスター:
いやぁ~、本当に興味深いですねぇ。もっと直正公や幕末維新期の佐賀のことについて知りたくなりましたよ。
富田さん:
そんなマスターにぴったりなのが、今年、2018年の明治維新150年を機に、3月から始まる「肥前さが幕末維新博覧会」です。博覧会では、迫力の映像と、分かりやすいストーリーで、幕末維新期の佐賀を振り返ることができる「幕末維新記念館」のほか、佐賀の偉人たちを数多く輩出した藩校「弘道館」の学びを体感できる「リアル弘道館」、佐賀発祥の武士の心得「葉隠」から、自分に合った言葉を探す体験などができる「葉隠みらい館」などがあるそうですよ。
マスター:
それは楽しみですね~。彼女と一緒に行って、富田さんから教えてもらったいろんな知識を披露しちゃおうかな…。
富田さん:
そういえば、これまで僕がマスターにお話してきたことは「肥前さが幕末維新博覧会」のホームページに、テキストと音声でまとめて掲載されていますから、デートの前に復習してみてはどうですか?結構、量がありますから、ポイントをメモしておくといいかもですね。じゃあ、ご馳走様でした!
マスター:
ありがとうございました~。それでは、早速「肥前さが幕末維新博覧会」のホームページを見て、「直正・虎の巻」を作っちゃいましょうかねぇ。あ、でもデートの時には、絶っ対見つからないようにしないと・・・。私の"威信"に関わりますからね。