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県指定(考古資料の部)11

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佐賀県重要文化財(考古資料)の部 

 

佐賀県重要文化財 午戻遺跡石棺墓出土遺物(うまもどしいせきせっかんぼしゅつどいぶつ)

平成14年3月6日指定
伊万里市松島町 伊万里市歴史民俗資料館 (伊万里市教育委員会)
考古資料 



 午戻遺跡は伊万里市大坪町字午戻・字辻の前に所在する、縄文時代後期、弥生時代中期中頃~終末期、中世の複合遺跡である。これまでに2回の調査(平成9・10年度)が実施されたが、調査地区の中心部から弥生時代の石棺墓13基、土壙墓2基、甕棺墓14基が検出された。
 SC010石棺墓には長宜子孫銘連弧文鏡、鉄小刀、鉄鎌、ガラス小玉、麻布片が副葬されていた。連弧文鏡は代表的な後漢鏡であることから、本鏡は1世紀後半から2世紀前半に位置付けされる舶載青銅鏡であるといえる。
午戻遺跡石棺墓出土遺物午戻遺跡石棺墓出土遺物

 

佐賀県重要文化財 牟田辺遺跡甕棺墓出土遺物(むたべいせきかめかんぼしゅつどいぶつ)

平成15年3月10日指定
多久市多久町1975 多久市郷土資料館 (多久市教育委員会)
考古資料 



 牟田辺遺跡は、多久市の南方、鬼の鼻山と聖岳から北東に伸びる丘陵の縁辺付近に所在する。昭和40年に通称「勘太郎丘」で地元学生が土器の露出を発見したことで、遺跡の存在が明らかになった。その後、第1次から第3次まで、3度の発掘調査(昭和49、51、52年)が行われたが、平成10年度から12年度までの第4次調査により、「勘太郎丘」の末端部にあたる第1区西で甕棺墓60基が検出され、71号甕棺墓には細形銅剣、硬玉製勾玉、碧玉製管玉が、48号には円環型銅釧、碧玉製管玉が副葬されていた。
 県内には、青銅器類や玉類を副葬する弥生時代の墳墓が数多く存在するが、青銅器類は主に佐賀平野、唐津平野が分布の中心であり、多久盆地では、四反田遺跡の青銅鏡1面のみが知られているにすぎなかった。牟田部遺跡甕棺墓から出土した銅剣、銅釧は、弥生時代中期には多久盆地に有力な首長層が存在したことを示すとともに、我が国の初期青銅器文化における青銅器の使用形態や生産形態の解明および大陸との交流を研究する上で貴重な資料である。

 

牟田辺遺跡甕棺墓出土遺物牟田辺遺跡甕棺墓出土遺物

 

牟田辺遺跡甕棺墓出土遺物牟田辺遺跡甕棺墓出土遺物

 

佐賀県重要文化財 柚比遺跡群出土青銅器・青銅器鋳型・鐸形土製品(ゆびいせきぐんしゅつどせいどうき・せいどうきいがた・たくがたどせいひん)

平成16年3月8日指定
佐賀市城内一丁目1番59号  佐賀県教育委員会
考古資料


柚比遺跡群出土青銅器・青銅器鋳型・鐸形土製品


 柚比遺跡群は鳥栖市北東部及び基山町南部に位置し、標高約30~70mの八ツ手状にのびる丘陵上に立地する縄文時代から近世にかけての約30箇所の遺跡により構成される。主な遺跡としては、柚比本村遺跡、安永田遺跡、前田遺跡、大久保遺跡、平原遺跡などがある。
 鳥栖北部丘陵新都市開発整備事業及び関連事業に伴い、県教育委員会が20遺跡(約68万平方m)を対象に平成3年度から11年度にかけて発掘調査を実施した。調査の結果、弥生時代から奈良時代の竪穴住居約1,500棟、掘立柱建物約50棟、弥生時代の甕棺墓約1,400基などが確認された。出土遺物については、縄文時代から近世にかけての多種多様なものがある。このうち弥生時代のものとしては、青銅器及び青銅器関連遺物が特筆される。

柚比遺跡群出土青銅器・青銅器鋳型・鐸形土製品柚比遺跡群出土青銅器・青銅器鋳型・鐸形土製品

  

佐賀県重要文化財 宇木汲田遺跡出土遺物(うきくんでんいせきしゅつどいぶつ)

平成17年3月30日指定
佐賀市城内1-15-23(佐賀県立博物館)
考古資料


宇木汲田遺跡出土遺物
 宇木汲田遺跡は唐津平野の南東部、夕日山北東麓の標高7~9mの水田に位置している。これまでに数次にわたる調査が行われ、縄文時代晩期~弥生時代前期の貝塚、弥生時代の集落・墓地などが確認されているが、今回指定された出土遺物(216点)は、主に昭和32(1957)年に東亜考古学会によって調査された弥生時代の甕棺墓から出土した多鈕細文鏡・細形銅剣・細形銅矛・細形銅戈・銅釧・勾玉・管玉である。
 唐津平野ではこれまでに弥生時代の青銅器が多数出土しているが、特に宇木汲田遺跡に集中して出土している。出土した青銅器はいずれも朝鮮半島に起源をもつもので、半島との盛んな交流を示している。また、多鈕細文鏡は全国でも出土例が12面しかない貴重なものである。

宇木汲田遺跡出土遺物宇木汲田遺跡出土遺物

 

佐賀県重要文化財 十三塚遺跡出土鏡(じゅうさんづかいせきしゅつどかがみ)

平成18年3月31日指定
県立博物館(佐賀市城内一丁目)
考古資料



 昭和46年(1971)、佐賀市大和町で行われた工事に際し箱式石棺墓一基が発見され、2体の人骨とともに方格規矩鳥文鏡(ほうかくきくちょうもんきょう)1面と夔鳳鏡(きほうきょう)片1面、鉄製刀子1点が副葬されていた。
 方格規矩鳥文鏡は、径15.4cmの中型鏡である。内区の中心にやや大きめの半球鈕があり、その周囲を18個の珠文が巡る。
 夔鳳鏡は縁と内区の一部が残る鏡片で、復元径は約11.0cmと推定される。平縁で、内区との境には凹線が巡り、その内側には連弧文帯が施される。製作時期は、後漢時代中期から後期とみられる。
 古墳時代前半期の埋葬施設に方格規矩鳥文鏡と夔鳳鏡を副葬する例は国内においても稀であり、当時の佐賀平野の首長層の動向を知る上で重要である。

十三塚遺跡出土鏡十三塚遺跡出土鏡

  

佐賀県重要文化財 瀬ノ尾遺跡出土絵画土器(せのおいせきしゅつどかいがどき) 

平成19年3月14日指定
神埼郡吉野ヶ里町吉田307番地(吉野ヶ里町教育委員会)
考古資料


瀬ノ尾遺跡出土絵画土器
 瀬ノ尾遺跡は、吉野ヶ里遺跡の東側の丘陵に位置する弥生時代から鎌倉時代にかけての複合遺跡である。平成2年から発掘調査が開始されたが、絵画土器は、瀬ノ尾遺跡の調査区南部、古墳時代前期の竪穴住居跡埋土およびその上部を覆う包含層から出土した。
 土器は壺の頸部から胴部にかけての破片(接合できる同一個体の3片)であり、うち2片にまたがって人物画が描かれる。
 この人物は、羽飾りを頭に付け、嘴とみられる突起を付けた仮面を装着しており、左手には、上部、中央、下部を鋸歯文帯で飾る盾を持つ。右手は欠けているが、戈を始めとする武器を握っていたとみられる。
 このような、武器・武具を持ち頭に飾りをつける司祭者を表した絵画は、近畿、中国、九州地域の弥生時代後期の遺跡から数多く見つかっており、西日本各地で共通の祭式が営まれたことを示す。また、本遺跡出土の絵画土器は共伴した土器の特徴から古墳時代前期に位置付けられるため、弥生時代的な習俗が古墳時代まで継承されていることを推測させる。

  

佐賀県重要文化財 天神ノ元遺跡出土絵画甕棺(てんじんのもといせきしゅつどかいがかめかん) 

平成19年3月14日指定
唐津市西城内1番1号(唐津市教育委員会)
考古資料



 天神ノ元遺跡は唐津市半田字天神ノ元に所在し、その西側には唐津湾に注ぐ半田川が流れる。
 第2次調査では、弥生時代前期末から後期にかけての甕棺墓41基が出土しており、そのうち20号甕棺に絵画が描かれていた。
 この甕棺は、合口甕棺だが、上甕は、身が大きく破壊されており、口縁部の一部のみ残存する。下甕は、口縁部が打ち欠かれた中型の甕棺で、上半部に絵画が線刻されている。
 沈線によって区画された空間に、横を向いた鹿と鉤状の線刻がそれぞれひとつずつ描かれている。現存する区画は4つだが、7区画、存在していたと考えられる。
 鹿は直線で表現された頭部と弧を描く胴部、胴部から直線的に延びる前足・後足からなる。いずれの鹿も角を持ち、牡鹿であることが分かる。「J」状の形をした鉤状の線刻は、単独のものと対になるものが、それぞれの区画に描かれる。
 20号甕棺は金海式とよばれる甕棺で、弥生時代前期末に位置付けられる。甕棺に鹿を描いた例としては、県内初例であり、2頭の鹿を描いた福岡県吉武高木遺跡出土甕棺とともに国内最古段階の絵画土器のひとつである。

天神ノ元遺跡出土絵画甕棺天神ノ元遺跡出土絵画甕棺

 

 

 

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