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県指定(考古資料の部)13

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佐賀県重要文化財(考古資料)
古園遺跡経塚出土遺物(ふるぞのいせききょうづかしゅつどいぶつ)8点 

   平成25年4月22日指定
   所在地 佐賀市城内一丁目1番59号 佐賀県教育委員会
   所有者 佐賀県

 古園遺跡経塚出土遺物古園遺跡は、唐津湾に注ぐ松浦川の支流である徳須恵川左岸の丘陵尾根上に所在する。経塚は、平成20年度に実施した西九州自動車道建設に伴う文化財発掘調査で、東西に延びるやせ尾根の最も標高の高い地点で発見された。

 二段に掘られた土坑の底に台座石を据え、その上に経筒が置かれ、口縁を肩部まで打ち欠いた四耳壷を逆さにして外容器としていた。外容器の周囲には炭化物を充填し、土坑上部は三段の石組みがあった。石組みの周囲の平坦面からは檜扇、鉄刀、銭貨、白磁小壷、白磁小皿片が出土した。

 経塚は、工事や災害など調査に依らない発見が多いが、この経塚は、発掘調査により出土したもので、経塚の構造や埋納品の出土状況がわかる貴重な資料である。

 

 

 

 

 

佐賀県重要文化財(考古資料)
土生遺跡出土踏鋤(はぶいせきしゅつどふみすき)1点 

   平成27年4月24日告示
   所在地 小城市小城町158-4 小城市歴史資料館
   所有者 小城市


 土生遺跡は、小城市三日月町に所在する標高約6~10mの低丘陵先端及びその前面に広がる扇状地上に立地する遺跡である。

 この遺跡から出土した踏鋤は木製の組合せ式のもので、柄・鋤身・鐔・楔の四部材から構成され、組み上がった状態で出土した。このような踏鋤は、朝鮮半島では「タビ」と呼称され、韓国大田出土と伝わる「農耕文青銅器」に畑を耕す道具として描かれている。

 出土資料としては、部材の一部が韓国の遺跡から出土しているが、全体の形状が明確に判明する例としては、日韓を通じて唯一であり、共伴した土器から弥生時代中期前半に使用していたことが分り、最古の出土例として貴重な資料である。

 また、土生遺跡では朝鮮系無文土器が多量に出土し、初期の青銅器生産が行われていることから、朝鮮半島から渡来した人々が在来の人々と一緒に居住していたことが知られており、踏鋤は朝鮮半島との交流を端的に示す重要な資料である。

土生遺跡出土踏鋤

 

 

  

佐賀県重要文化財(考古資料)
桜馬場遺跡出土遺物(さくらのばばいせきしゅつどいぶつ)(平成19年度調査分) 1括 

   平成29年4月11日告示
   所在地 唐津市菜畑3359番地2 末盧館
   所有者 唐津市教育委員会


 

桜馬場
 桜馬場遺跡は、唐津市桜馬場に所在し、市内を北流する松浦川左岸域に形成された砂丘列上に位置する。昭和19年(1944)の防空壕掘削に伴い甕棺が不時発見され、中国後漢代の銅鏡2点、巴形銅器3点、有鉤銅釧26点などの副葬品が出土し、その内容は末盧国王墓を想起させる卓越したものであった。甕棺本体は埋め戻されたが、主要な遺物は保管され、昭和32年2月19日には国の重要文化財に指定されている。

平成19年(2007)に当該地の開発計画に伴う調査が唐津市教育委員会により実施された。その結果、昭和19年に甕棺墓を発見した防空壕埋土及びその近辺からは、埋め戻された甕棺に加え、銅鏡片、巴形銅器、翡翠製・碧玉製・ガラス製玉類等が新たに出土し、昭和19年に取り残したと想定できる副葬品の存在が確認された。

 平成19年度出土遺物は、出土位置、既往調査出土遺物との接合、形態的特徴の類似から、昭和19年出土資料を擁する甕棺墓に帰属すると判断できる。また、新たに翡翠製・碧玉製・ガラス製玉類や棺外副葬の可能性がある内行花文鏡片が加わるなど、その資料的価値は昭和19年出土資料と同様に極めて高い。甕棺は、下甕が器形全体を復元でき、そこから得られる年代観(弥生時代後期前半新段階)は巴形銅器や有鉤銅釧の編年をはじめとした調査研究に定点を与えるもので、重要である。

当該甕棺墓は、中国産の銅鏡や国産の巴形銅器や有鉤銅釧、翡翠製・碧玉製・ガラス製玉類など多種かつ際立った内容の副葬品を有することから、魏志倭人伝に記載のある「末盧国」王墓として人々の関心を強く引き現在に至っており、その価値は極めて高い。

 

    

佐賀県重要文化財(考古資料)
中原遺跡出土木簡と土師器相模型模倣杯(なかばるいせきしゅつどもっかんとはじきさがみがたもほうつき) 1件

   平成30年4月13日告示
   所在地 佐賀県文化財調査研究資料室/神埼市神埼町鶴3658‐2
   所有者 佐賀県

 

木簡

中原遺跡は、唐津市原に所在し、松浦川河口の東岸、標高約4mの砂丘微高地に立地する。8号木簡は、防人にかかわる国内初出の出土文字資料であり、土師器杯とともに本遺跡に東国防人が配置されたことが実証され全国的に注目された。同木簡は一部欠損するが、ほぼ原形であり、上下を異にした二つの文書が重なって書かれるが一次文書に「甲斐国☐〔津カ〕戍☐〔人〕」と記される。木簡の年代は、二次文書の延暦8年(789年)がある。一次文書に見える東国防人は、天平宝字元年(757年)に停止され、天平神護2年(766年)に復活し、その後延暦14年(795年)に廃止されており、延暦8年を大きく遡らない時期のものとみることができる。

8号木簡にみえる「戍」は、武器を取って守ることを意味し、「戍人」は甲斐国出身の兵士、すなわち東国防人である。しかも、甲斐国から新たに赴任した防人ではなく、旧防人として九州に長期間逃げ留まっていた甲斐国の出身者で、再び徴発され任に赴かざるをえなくなった防人を指している。また、防人が任地において「戍人」とよばれていたことも、本木簡により初めて確認できた。                     木簡(上)と土師器(下)

土師器

土師器杯は、調整の特徴から相模型模倣杯と特定したが、杯製作に精通しない相模地方の人が製作したと考えられている。

天平十年度駿河国正税帳には、甲斐国39人、相模国230人のほか1082人の帰還途中の防人たちに食糧を支給した記事があり、甲斐国、相模国から防人徴兵があったことが判る。相模型模倣杯は、本遺跡に配属された相模国出身者の製作と考えられ、「戍人」(防人)木簡と相模型模倣杯は防人制において議論されることの少なかった時期やそのあり方を豊かに物語る。                                                   

また、1号木簡、3号木簡にみえる「大村」「大村郷」により、松浦郡ではこれまで知られていなかった大村郷の存在が初めて確認された。『肥前国風土記』には郷11所と記されているが、郷名がわかるのは値嘉郷のみであり、大村郷が確認された意義は大きい。肥前国の駅家は『延喜式』に大村駅と記載されているが、これを彼杵郡大村郷ではなく松浦郡内の浜玉町五反田付近の大村郷の中に大村駅があったことが改めて明らかになった。

 8号木簡および土師器杯は、防人制の実態や当時の国内外の社会情勢を実証し、1号・3木簡は史料では不明だった松浦郡内の地名や駅家の所在地を明らかにしたなど学術的価値が極めて高い。

 

 

    

佐賀県重要文化財(考古資料)
藤木遺跡出土鋳型(ふじのきいせきしゅつどいがた) 4点 

   平成31年4月26日告示

         所在地 鳥栖市宿町1118番地 鳥栖市教育委員会
   所有者 鳥栖市


 

藤木1

藤木遺跡は、鳥栖市藤木(ふじのき)町字北浦(きたうら)に所在し、南流する前川(まえかわ)右岸(うがん)の標高10~20mの低位段丘東南端部に立地する。平成25年度に確認された環濠の一部と考えられる弥生時代後期前半の遺構から出土した(どう)(こう)(どう)(ぞく)2点、銅釧(どうくしろ)の鋳型4点が指定品として答申される。

これらの鋳型は、いずれも2つの鋳型を合わせて鋳造する複合笵(ふくごうはん)となっており、石材は灰白色の石英(せきえい)長石(ちょうせき)斑岩(はんがん)である。

 

 

藤木2
 銅釦鋳型は、中央の円形の座部と(つば)部の彫り込みが認められ、約1/3が残存する。1面のみの彫り込みで砥石への転用は認められず、背面は蒲鉾形を呈する。鋳型に彫り込まれた銅釦は、(つば)(たん)()に縁を持ち、鍔部と座部間に段を有する。製品の出土は有明海沿岸地域を中心に8遺跡10例が知られるが、鋳型自体の出土は我が国で初例である。なお、当該鋳型から推定される製品の大きさ、形態とも類例は認められない。 

銅鏃鋳型1は、(えぐ)()りの(ゆう)(けい)(ぞく)(たん)鋳式(ちゅうしき)鋳型で、切先部に湯口が認められる。背面は蒲鉾形を呈し、中位には鋭利な工具によるV字形と鋳型緊縛用の溝の彫り込みが認められる。

銅鏃鋳型2は、凹基式(おうきしき)の銅鏃の単鋳式鋳型で、背面は蒲鉾形を呈し、中位には鋳型緊縛用の幅広の溝状彫り込みが認められる。また、鋳型1と同様に、切先部に湯口が認められる。湯口及び刃部周辺は黒変し、実際に使用されたものと考えられる。

銅釧鋳型は、折損しており、約1/2程度が残存する。銅釧の彫り込み部及び湯口周辺は、黒変し、実際の使用が推察される。背面には湯口や円弧状の彫り込みが認められるが、折損しているうえ砥石として再利用されているため詳細は不明である。

これら4点の鋳型は、いずれも比較的近い位置からの出土で、廃棄時期が明確であることより資料的価値は極めて高い。銅釦の鋳型は国内初出であり、円環型銅釧の鋳型と共に、これまで製品の製作地が国内か、国外かで意見が分かれていたが、少なくとも一部が国内生産品であることが明らかとなった。銅鏃鋳型は、単鋳式で、背面に鋳型緊縛用と想定される溝状の彫り込みがみられるなどの特徴的な要素も窺え、青銅器生産体制や技術の変遷まで言及できる価値も有している。 

また、これまで佐賀県内の青銅器生産は、主に中期初頭から中期前半を中心に認められ、中期後半以降は散発的にしか確認できなかった。しかし、この藤木遺跡の鋳型の出土により、鳥栖地域では中期から後期まで継続していたことが明らかとなった。

 以上のように、本鋳型4点は、県内における弥生時代を研究するうえで貴重な資料である。


 

 

 

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