平成30年4月13日告示
所在地 佐賀県文化財調査研究資料室/神埼市神埼町鶴3658‐2
所有者 佐賀県
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中原遺跡は、唐津市原に所在し、松浦川河口の東岸、標高約4mの砂丘微高地に立地する。8号木簡は、防人にかかわる国内初出の出土文字資料であり、土師器杯とともに本遺跡に東国防人が配置されたことが実証され全国的に注目された。同木簡は一部欠損するが、ほぼ原形であり、上下を異にした二つの文書が重なって書かれるが一次文書に「甲斐国☐〔津カ〕戍☐〔人〕」と記される。木簡の年代は、二次文書の延暦8年(789年)がある。一次文書に見える東国防人は、天平宝字元年(757年)に停止され、天平神護2年(766年)に復活し、その後延暦14年(795年)に廃止されており、延暦8年を大きく遡らない時期のものとみることができる。
8号木簡にみえる「戍」は、武器を取って守ることを意味し、「戍人」は甲斐国出身の兵士、すなわち東国防人である。しかも、甲斐国から新たに赴任した防人ではなく、旧防人として九州に長期間逃げ留まっていた甲斐国の出身者で、再び徴発され任に赴かざるをえなくなった防人を指している。また、防人が任地において「戍人」とよばれていたことも、本木簡により初めて確認できた。 木簡(上)と土師器(下)
土師器杯は、調整の特徴から相模型模倣杯と特定したが、杯製作に精通しない相模地方の人が製作したと考えられている。
天平十年度駿河国正税帳には、甲斐国39人、相模国230人のほか1082人の帰還途中の防人たちに食糧を支給した記事があり、甲斐国、相模国から防人徴兵があったことが判る。相模型模倣杯は、本遺跡に配属された相模国出身者の製作と考えられ、「戍人」(防人)木簡と相模型模倣杯は防人制において議論されることの少なかった時期やそのあり方を豊かに物語る。
また、1号木簡、3号木簡にみえる「大村」「大村郷」により、松浦郡ではこれまで知られていなかった大村郷の存在が初めて確認された。『肥前国風土記』には郷11所と記されているが、郷名がわかるのは値嘉郷のみであり、大村郷が確認された意義は大きい。肥前国の駅家は『延喜式』に大村駅と記載されているが、これを彼杵郡大村郷ではなく松浦郡内の浜玉町五反田付近の大村郷の中に大村駅があったことが改めて明らかになった。
8号木簡および土師器杯は、防人制の実態や当時の国内外の社会情勢を実証し、1号・3木簡は史料では不明だった松浦郡内の地名や駅家の所在地を明らかにしたなど学術的価値が極めて高い。
佐賀県重要文化財(考古資料)
藤木遺跡出土鋳型(ふじのきいせきしゅつどいがた) 4点
所在地 鳥栖市宿町1118番地 鳥栖市教育委員会
所有者 鳥栖市
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藤木遺跡は、鳥栖市藤木町字北浦に所在し、南流する前川右岸の標高10~20mの低位段丘東南端部に立地する。平成25年度に確認された環濠の一部と考えられる弥生時代後期前半の遺構から出土した銅釦、銅鏃2点、銅釧の鋳型4点が指定品として答申される。
これらの鋳型は、いずれも2つの鋳型を合わせて鋳造する複合笵となっており、石材は灰白色の石英長石斑岩である。
銅釦鋳型は、中央の円形の座部と鍔部の彫り込みが認められ、約1/3が残存する。1面のみの彫り込みで砥石への転用は認められず、背面は蒲鉾形を呈する。鋳型に彫り込まれた銅釦は、鍔端部に縁を持ち、鍔部と座部間に段を有する。製品の出土は有明海沿岸地域を中心に8遺跡10例が知られるが、鋳型自体の出土は我が国で初例である。なお、当該鋳型から推定される製品の大きさ、形態とも類例は認められない。
銅鏃鋳型1は、抉り入りの有茎鏃の単鋳式鋳型で、切先部に湯口が認められる。背面は蒲鉾形を呈し、中位には鋭利な工具によるV字形と鋳型緊縛用の溝の彫り込みが認められる。
銅鏃鋳型2は、凹基式の銅鏃の単鋳式鋳型で、背面は蒲鉾形を呈し、中位には鋳型緊縛用の幅広の溝状彫り込みが認められる。また、鋳型1と同様に、切先部に湯口が認められる。湯口及び刃部周辺は黒変し、実際に使用されたものと考えられる。
銅釧鋳型は、折損しており、約1/2程度が残存する。銅釧の彫り込み部及び湯口周辺は、黒変し、実際の使用が推察される。背面には湯口や円弧状の彫り込みが認められるが、折損しているうえ砥石として再利用されているため詳細は不明である。
これら4点の鋳型は、いずれも比較的近い位置からの出土で、廃棄時期が明確であることより資料的価値は極めて高い。銅釦の鋳型は国内初出であり、円環型銅釧の鋳型と共に、これまで製品の製作地が国内か、国外かで意見が分かれていたが、少なくとも一部が国内生産品であることが明らかとなった。銅鏃鋳型は、単鋳式で、背面に鋳型緊縛用と想定される溝状の彫り込みがみられるなどの特徴的な要素も窺え、青銅器生産体制や技術の変遷まで言及できる価値も有している。
また、これまで佐賀県内の青銅器生産は、主に中期初頭から中期前半を中心に認められ、中期後半以降は散発的にしか確認できなかった。しかし、この藤木遺跡の鋳型の出土により、鳥栖地域では中期から後期まで継続していたことが明らかとなった。
以上のように、本鋳型4点は、県内における弥生時代を研究するうえで貴重な資料である。