私の父は私が中学3年の10月、特急電車に飛び込み自ら命を絶ちました。あまりに突然の出来事で、隣で泣き崩れる母に「なんで?」と泣く事もできずにいました。
「なんで父は死んでしまったのか?」「家の経済状況が悪かったから?」「私と母を捨ててしまったんだろうか?」「どうして気づいてあげられなかったんだろうか」・・・答えの出ない疑問ばかりが頭をめぐり、その後も父が亡くなった電車で毎日学校に通わなければいけない事が苦痛で仕方ありませんでした。そして辿り着いた答えは、「私が授業料の高い私立の学校になんか行ったからいけなかったんだ。私がお父さん殺したんだ・・・」そんな自責の念でした。
その当時は、まだ「自死」という言葉もなく、「自殺」という言葉もタブー視されており、「父が自殺で亡くなった」という事は家族とごく身近な親類のみが知る事実でした。「誰にも口外してはいけない」、この事は父の死が明らかになった時に真っ先に言われた言葉でした。誰にも本当の事を言えず、誰にも本当の事を聞けず、自分を責め続けた日々。
そんな中で、高校進学に当たり、あしなが育英会という団体より奨学金を借りる事となり、その繋がりで出会ったのが、同じように大切な家族を自死で亡くした自死遺児でした。それまで誰にも話せず、「どうして私ばかりがこんな思いをしなくちゃいけないんだ」「誰もこの辛さはわかってくれない」と蓋をしたままだった心が、ようやく少し重い蓋を開けた瞬間でした。初めて長い長い沈黙を破って、「・・・私の父は自殺しました」と言った後は、正直その時何を話したか記憶がありません。ただ、たくさんの涙を流していた事と、話し終わった後にフッと肩が軽くなった感覚だけ記憶に残っています。
私はその日からようやく止まっていた時間がまた流れ始めた気がします。話をする事や同じような経験をした誰かの話を聞く事で少しずつ父の死の事実に向き合い、受け止めていく事ができました。そして8年程の年月が経って、ようやく一番身近な母と、父の死の事について話をする事が出来ました。その時一番感じた事は、母の時間は父の亡くなった日から止まったままだったと言う事でした。父が亡くなり、女手一つで私を育ててくれた母には、父の死について向き合う時間などなく、日々生活していく事で精一杯だったんだと言う事。そして誰よりも自分を責めていたと言う事。その事を話す場所などなかったと言う事・・・。その経験から、地元でも大切な人を自死で亡くした人がその思いを分かち合える場所を作りたいと思い、自死遺族分かち合いの会「おあしす」の設立となりました。
大切な人を突然亡くし、ショックで呆然としていませんか。何をしたらいいのかわからず、一人で苦しんではいませんか。気づいてやれなかった、食い止めれなかった、自分のせいだとご自分を責めてはいませんか。あなたは一人ではありません。少しだけ顔を上げてみて下さい。周りにはあなたを助けてくれる人、支えてくれる人、悲しみを分かち合える人、相談にのってくれる人がきっといます。受け止めるのに時間がかかるかもしれません。すぐには前を向けないかもしれません。それでもいいんです。あなたの大切な人はきっとあなたが前を向いて人生を歩いてくれる事を望んでいると思います。少しずつでもあなたが一歩ずつ前を向いて歩んで行けるように、一人で頑張りすぎずに少し周りに手助けを求めてみて下さい。そして周りの方達は「頑張って」などの励ましの言葉は十分頑張っている人にはプレッシャーでしかありません。是非その気持ちに寄り添ってあげて欲しいのです。
私は父が亡くなりもうすぐ20年が経ちます。20年という間に学校も出て、仕事にも就き、家族もでき、母にもなりました。父が亡くなった事は紛れもない事実ですが、今は父の事を胸に母や新しい家族と自分の人生を歩んでいます。皆、きっとそれぞれが自分を癒し生きて行く力を持っています。寄り添う力が、きっと生きて行く力に繋がると信じています。あなたは一人じゃないですよ。
佐賀ビッグフット