平成25年3月27日指定、平成26年10月6日追加指定
佐賀市川副町大字早津江・諸富町大字為重
産業遺産
三重津海軍所跡は、幕末に佐賀藩が洋式船による海軍教育を行い、藩の艦船の根拠地として、さらに修船・造船を行う場として経営された施設の遺跡である。遺跡は、筑後川の支流早津江川の標高約3mの西岸河川敷に立地する。佐賀藩が藩内の船手に洋式船の運用技術を教育するため、安政5年(1858)、三重津にあった藩の船屋を拡張し、御船手稽古所を設けたことに始まる。
その後、海軍の養成及び艦船の運用が本格的に行われるようになり、船屋の一角を海軍稽古場として拡張し、役所の出張所に続き稽古人の宿舎や稽古場が整備された。また、早津江川河口の沖合が藩所有艦船の係留地に定められ、三重津は艦船運用の根拠地としても整備された。
さらに、洋式艦船の修理のため部品の補修や製造を行う「製作場」や、修船や造船の際に船を引き入れる「御修覆場」等の修船施設が整備され、国内最初期の実用蒸気船である凌風丸が建造された。平成13年度~平成24年度の発掘調査により、海軍所時代の金属加工遺構、木杭と板を組み合わせた在来の土木工法による船渠側壁の護岸施設等が見つかっている。
国史跡 東名遺跡(ひがしみょういせき)
平成28年10月3日告示
所在地 佐賀市金立町大字千布
所有者 佐賀市
東名遺跡は、標高3mに立地する167基の集石遺構と8体分の埋葬人骨が集中する墓域から成る居住域、標高-0.5mから-2mの斜面部に広がる6か所の貝塚、さらには標高-2mから-3mの低湿地に築かれた155基の貯蔵穴群によって構成される、集落構造の全体が明らかな縄文時代早期末葉(約7,000年前)の遺跡である。また、生活用具や食料残滓の遺存状態も極めて良好であることから、当時の生活を復元可能にする遺跡であり、当該期では九州や西日本はもちろん日本列島全体を見渡しても類例がない。特に、貝塚から出土する骨角製品や貯蔵穴群から出土する700点を超える編み籠(かご)からは、当時の造形的に優れた文様の実態を知ることができ、さらにこれらが国内では最古級に属することから、その製作技術を含め系譜についても注目されるところである。このように東名遺跡は、日本列島の縄文時代早期末葉の生活を忠実に伝える遺跡として重要である。