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国指定(史跡の部)02

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国指定史跡の部 

史跡 横田下古墳(よこたしもこふん)

昭和26年6月9日指定
唐津市浜玉町横田下字西の谷743
古墳


横田下古墳
 鏡山の北東の麓で北へ延びる丘陵、標高60mに立地する。墳丘の西側から南側を削平されるが、推定直径約30mの円墳である。
 内部主体は単室の横穴式石室で、玄室は長さ3.95m、前幅1.8m、奥幅2.25m、高さ2.34mあり、玄武岩の扁平割石を持ち送り式に平積みし、天井部は扁平な花崗岩3石を載せる。壁面全体に赤色顔料が塗られている。
 石室内には、3つの石棺があり、獣帯鏡、方格規矩鏡、筒形銅器、短甲、直刀、鉄鏃、勾玉、管玉、丸玉、土師器高坏、甕が副葬されている。
 5世紀前半~中頃に築造された考えられ、朝鮮半島にその源流をもつ、九州における横穴式石室の初現期の様相を示すものとして極めて重要である。

史跡 肥前国庁跡(ひぜんこくちょうあと)

平成元年9月22日指定
佐賀市大和町大字久池井2738-2
官衙跡



 奈良時代から平安時代前期にかけての肥前国の中心となった役所跡で、昭和50年から10年間の発掘調査が実施され、政庁跡区域と、その内外の主要な建物跡が見つかり、国庁跡の全容が明らかとなった。
 南北約105m、東西約77mの平面長方形に巡る溝跡と、その内側の築地によって囲まれた空間に、前殿・正殿・後殿が南北中軸線上に並び、前殿の東西両側に各2棟の脇殿を配置する。正殿の東西には回廊が取り付き郭内を南北に二分する。
 これらの構造は、大宰府政庁との類似性が指摘されているが、行政組織だけでなく、国庁の造営に関しても大宰府の強い影響がうかがえる。
 国庁の内部が明らかになった遺跡は全国的にも珍しく、南門と築地塀(両翼10m)が復元されている。

肥前国庁跡肥前国庁跡

上空より(左)   史跡正面(右)

肥前国庁跡肥前国庁跡

復元建物(南門、築地塀)(左)   ガイダンス施設(右)

史跡 帯隈山神籠石(おぶくまやまこうごいし)

昭和26年6月9日指定
佐賀市久保泉町大字川久保・神埼市神埼町西郷
古代城郭


帯隈山神籠石
 佐賀市の北部山麓に築かれた古代山城で、帯隈山を中心に切石を並べた列石線が約2.4kmの長さで一周し、途中、北面に門跡1カ所、南面に水門推定地3カ所がある。昭和16年に発見、39年に発掘調査が実施された。
 列石線は帯隈山とその周辺を、地形に沿って複雑に屈曲し、谷部では出水に備え水門を設けていたと推定される。列石の用材は花崗岩で、高さ60cm前後の直方体に切り揃えられている。列石背後には、高さ2m前後の土塁が築かれ、列石前面に木柵が立てられていたことが発掘調査により判明した。
 このような神籠石は、北部九州から瀬戸内の一部に12カ所確認されており、いずれも7世紀頃の築城とされるが、正確な年代、目的、性格等は明らかでない。

史跡 おつぼ山神籠石(おつぼやまこうごいし)

昭和41年6月21日指定
武雄市橘町大字大日 おつぼ山
古代城郭


おつぼ山神籠石
 佐賀平野の西端にあたる杵島山の西麓に築かれた古代山城で、全長1.8kmにわたり切石が楕円状に一周し、途中門跡2カ所、水門4カ所を有する。昭和37年に発見、38年に発掘調査が行われた結果、神籠石が土塁や柵列を有する古代城郭であることがことを、初めて確認できた記念碑的遺跡である。
 列石は、近隣産の凝灰角礫岩で、高さ70cm前後の直方体に切り揃えられ、その数1300個以上と推定される。第1水門は、長さ19m、高さ1.2mの円弧状石塁となっている。築城は7世紀頃と推定されるが、正確な年代、目的、性格等は明らかでない。

 

 

史跡 肥前陶器窯跡(ひぜんとうきかまあと)

昭和15年2月10日指定
唐津市、武雄市、多久市
生産に関わる遺跡



 唐津市の北波多の岸岳山麓には、皿屋窯、皿屋上窯、帆柱窯、飯洞甕上窯・飯洞甕下窯の5基の窯跡が所在する。これら窯跡は釉薬・成形技法・窯詰め手法等の製品や窯構造の特徴から、16世紀末頃のもので本窯跡でもごく初期のものと考えられる。また、唐津市街地には御茶わん窯跡があり、焼成室7室以上からなる連房式登窯の構造になっている。江戸中期から後期まで唐津藩の御用窯として使用されていたもので、その後大正年間まで中里一族により使用されていた。御用窯の製品は「献上唐津」と称され、茶陶のほか多様な器種がある。
 武雄市の北部には、内田系と黒牟田系の窯跡がある。内田系の小峠窯跡からは、刷毛目、三島手などの装飾がみられる陶器と、染付と青磁の磁器が出土しており、17世紀前半頃の窯跡と推定される。同じく内田系の大谷窯跡からは、刷毛目、二彩の陶器が出土しており、17世紀後半の窯跡と推定される。黒牟田系の錆谷窯跡は、絵唐津の装飾をもつ陶器が出土していることから、開窯年代は16世紀末前後と推定される。土師場物原山からは、黒釉や青釉を施した土瓶やすり鉢等が多数出土しており、年代は江戸中から後期とみられる。
 多久盆地の西方、牛津川上流部には唐人古場窯跡があり、多久家史料によると秀吉の朝鮮出兵の折に連れて来られた金ケ江三兵衛が最初に築いた窯とされる。操業時期は、16世紀から17世紀初頭頃と考えられる。焼成室間の段差がない窯構造や磁器製作の技法を思わせる製品の特徴は朝鮮半島のものに近い。

肥前陶器窯跡肥前陶器窯跡肥前陶器窯跡

史跡 肥前磁器窯跡(ひぜんじきかまあと)

昭和55年3月24日指定
武雄市山内町・嬉野市・西松浦郡有田町
生産に関わる遺跡



 江戸時代初期に朝鮮の技術者が有田町泉山で磁石場を発見したことは、我が国の陶磁器生産に大変革をもたらし、これにより有田周辺で多くの磁器窯が築かれた。うち、百間、不動山、天狗谷、原明、山辺田の5窯跡と、泉山磁石場跡が指定されている。
 武雄市山内町の百間窯跡は、多様な装飾技法を駆使し、製品の種類が多い磁器窯である。
 嬉野市の不動山窯跡は、5基以上からなる皿屋谷窯跡群の一部で、染付芙蓉手皿や、青磁の大物が多く出土している。
 有田町の天狗谷窯跡は、5基以上からなり、磁器創始の記録にかかる窯として貴重である。原明窯跡は、3基以上の窯跡からなり、陶器と磁器を焼造した。山辺田窯跡は、8基以上の窯跡からなり、磁器専焼となってからは、染付大皿を主に生産した。

天狗谷窯跡(左)  泉山磁石場(右)

肥前磁器窯跡肥前磁器窯跡

史跡 柿右衛門窯跡(かきえもんかまあと)

平成元年9月22日指定
有田町南山丁311
生産に関わる遺跡


柿右衛門窯跡
 年木山西斜面にA・B、2基の窯跡があり、昭和51年から53年まで有田町教育委員会が発掘調査を行った。
 A窯は、胴木間から12室までの約42メートルが調査され、B窯は、18室までの約69mが調査された。またB窯に沿って物原が長さ70m、最大幅14mにわたって残る。
 操業時期は、17世紀後半と推定され、BからA窯へ移行した。製品は染付を主に、乳白手、青磁、白磁のほか、数点の赤絵やVOCマーク入染付もある。
 我が国の磁器を代表する柿右衛門様式の典型的作品を製作した名窯として、窯業史上重要である。

史跡 大隈重信旧宅(おおくましげのぶきゅうたく)

昭和40年6月4日指定
佐賀市水ヶ江二丁目11-11
旧宅等・文化・教育施設


大隈重信旧宅
 佐賀城下の東部、佐賀藩の中級武士が居住した会所小路の南側に位置し、一部2階建て、草葺き一部瓦葺きの一般的な武家住宅の様式をよく残している。
 明治の元勲の一人、早稲田大学の創始者としても知られる大隈重信は、天保9年に信保、三井子の長男として生まれ、明治元年に東京へ移るまで、この家で生活した。
 昭和43年に解体修理が実施され、隣接する大隈記念館とともに一般に公開されている。

 

史跡 多久聖廟(たくせいびよう)

大正10年3月3日指定
多久市多久町東の原1642
旧宅等・文化・教育施設


多久聖廟
 江戸時代の学校内に、儒学の先哲たちを祀る施設として建築された。中国風の外観で、桁行き梁間とも3間、入母屋造瓦葺き、内部はタタキの土間で、ここに建物とともに重要文化財に指定された「元禄十三年五月鋳成」銘の孔子像を納めた聖龕(せいがん)がある。
 明治の修理後、長く銅板葺きであったが、平成2年の修理で、旧来の瓦葺きとなり、創建当時の姿に還った。

国重要文化財「多久聖廟」へリンク

 

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