小城駅は、北側に広がる小城市街地に向かって北面して建つJR唐津線の中間駅である。JR唐津線は、唐津炭田の開発に伴う唐津港までの石炭輸送を要因として、唐津から牛津停車場間の鉄道施設を目的に敷設されたものである。
小城駅は、唐津線の全線開通に伴い明治36年(1903)12月14日に開業したもので、本屋入口上部には大正6年(1917)3月27日の建物財産標を掲げるが、明治45年(1912)1月の印のある小城駅庭園落成記念の古写真にはすでに現在の本屋建物が確認される。
建物は、木造平屋建てで外壁を真壁造白漆喰仕上げ、腰部を縦羽目板張とする。上屋の四周には下屋を廻し、屋根は寄棟造桟瓦葺。東西棟で中央の出入口を挟んで東側に待合室、西側に駅務室を配置する。
昭和中期には、本屋の西側に休憩室と給湯室からなる附属屋が増築されていたが、平成26年12月から平成27年3月にかけて駅舎の改修工事が行われ、当初の規模に戻されるとともに周囲の環境整備が施され利活用が進められている。
旧百﨑家住宅は、佐賀市の中央部、佐賀城南堀端から東西に延びる水ヶ江横小路の南側に北面して建つ。敷地の西側と南側は佐賀平野特有のクリークに面し、佐賀城下図によると藩政期には佐賀鍋島藩の御典医を務めた石井家が居住する武家屋敷地であったことがわかる。所有者は、石井家から続く家系で代々医者を務めており、主屋では以前診察も行われていたという。また、祖先の石井如自は、佐賀近世文壇の先駆的作家と称される俳人として有名で、後に所有者となった明治期の百﨑欽一も医者として医院を経営する傍ら俳人として活躍した人物である。
屋敷は、明治前期の建築と考えられる寄棟造茅葺の主屋とその南西側に昭和6年に増築された二階建ての離れが附属する構成をとる。茅葺屋根は棟を三方に鉤の手状に折り曲げた複雑な外観を持ち、四方に桟瓦葺の下屋を廻らして全体的に立ちの低い造りとする。主屋の座敷は南側にある庭園に向けて開放的な造りで、内部造作は簡明ながら質が高い。
旧百﨑家住宅は、佐賀城下において来歴の判明する武家屋敷地に建ち、御典医と俳人の流れを有する所有者によって代々受け継がれてきたもので、茅葺の主屋は複雑な屋根形状からなる地方的特色と質の高い武家屋敷の様相を有し、佐賀城下における往時の景観を今に伝えるものとして価値を有している。
平成29年5月2日告示
所在地 藤津郡太良町大字伊福字椎ノ木坂甲1978番地
所有者 中野高治
中野家は地元の名家で、本住宅を建築した中野権六は県議会議員や佐賀毎日新聞社社長を務め、萬亀夫人は婦人の地位向上や地元の教育活動に努めるなど、地域の振興発展に尽力した家柄である。当初、屋敷には主屋の他に寮や土蔵、作業場等もあり、これらの建物において教育活動やそこで学ぶ生徒達との共同生活、集会等が行われた。
現存する主屋は明治42年(1909)の上棟で、主屋棟と座敷棟、納戸棟から構成されており、これらを中央にある一間幅の廊下で結ぶなど、賓客や生徒の往来を考慮した平面構成となっている。主屋棟は虹梁や蟇股など意匠を凝らした式台玄関を有し、座敷棟は椅子座に合わせて床を腰高に設けた座敷と床、棚、付書院を備える伝統的な座敷の両者を配し、接客や教育活動の使用のため工夫された平面構成に近代的展開を示す。
主屋の正面には隅を几帳面取し、頂部に切石を一段と蛇腹の装飾をもつ笠石を載せた石柱二本を立てて重厚な表構えを成す。また、敷地背後には、山から浸透する水を崖に溜める貯水槽を設け、この内、上と下の取水口は煉瓦積アーチ門を開くなど、地の利を活かした近代的な自家用給水設備の様相を今に伝えるものである。
中野家住宅は、地域振興や教育に尽力した名士の住宅で、主屋棟、座敷棟、納戸棟を廊下で結び、接客や教育活動の使用のために工夫された平面構成に近代的展開を示すもので、煉瓦造の水槽や取水口からなる近代的な自家用給水施設を備え、屋敷地を構成する石造の門柱や石垣とともに価値を有するものである。