佐賀藩主鍋島家の御刀鍛冶(御用刀工)の忠吉(忠広)とその一門は、江戸時代を通じて100人を超える刀工を輩出し隆盛を極めました。江戸時代の『懐宝剣尺』という刀剣書では、刀を切味で番付していますが、最上大業物12名に、初代忠吉など肥前刀工から3名が選ばれています。
江戸時代には「肥前国忠吉一類」などの呼称はあったようですが、「肥前刀」という用語があらわれるのは、大正6年(1917)刊の『西肥遣芳』からといわれています。
なお、江戸時代の肥前国の刀鍛冶は忠吉(忠広)一門だけではありません。佐賀出身で諫早家に仕えた宗次、唐津で活躍した本行、平戸の正重など、各地域に優れた刀鍛冶の一門がおり、それぞれに個性ある作品を製作しています。
初代忠吉 / 元亀3年(1572)~寛永9年(1632)
橋本新左衛門。肥前佐賀藩の御刀鍛冶で、日本刀の歴史の上では肥前刀の祖として有名な人物です。
慶長元年(1596)25歳のとき、鍋島家の命を受けて京都の埋忠明寿に入門し、同3年帰国しています。元和10年(1624)に武蔵大掾を受領して、忠広と改めています。
初代忠吉の作品のうち、刀(銘 肥前國住藤原忠廣 寛永七年八月吉日)と 短刀(肥前国住藤原忠廣 寛永八年八月日の銘あり)が佐賀県重要文化財に指定されています。
二代忠吉 / 慶長19年(1614)~元禄6年(1693)
初代の末子で、通称は初代と同じ新左衛門です。初代の逝去ののち忠広を襲名しています。寛永18年(1641)に近江大掾を受領し、80歳で没しました。
三代忠吉 / 寛永14年(1637)~貞享3年(1686)
二代の嫡子として生まれ、通称は新三郎。万治3年(1660)、24歳で陸奥大掾を受領、翌年には陸奥守となっています。父の二代忠広を助けることが多かったためか、自己の作品は少ないようです。父に先立って、50代の若さで没しています。
四代忠吉 / 寛文8年(1668)~延享4年(1747)
三代の嫡子として生まれ、通称は源助でしたが、父の没後は父の通称である新三郎を名乗っています。元禄13年(1700)に近江大掾を受領しており、80歳で没しました。
五代忠吉 / 元禄9年(1696)~安永4年(1775)
四代の嫡子として生まれ、通称は初代、二代と同じ新左衛門です。四代が存命のうちは忠広と名乗っていましたが、没後、忠吉を名乗るようになりました。寛延3年(1750)、55歳になって近江守を受領しました。
六代忠吉 / 元文元年(1736)~文化12年(1815)
五代の次男ですが、兄が早世したため六代目を継いでいます。初め忠広を名乗り、父の死後、忠吉と新左衛門を襲名しています。寛政2年(1790)に近江守を受領しました。
七代忠広 / 明和8年(1771)~文化13年(1816)
通称は平作郎、平助、のちに忠左衛門と改めています。六代が死んで間もなく病没したため、忠吉を襲名するには至っていません。
八代忠吉 / 享和元年(1801)~安政6年(1859)
佐賀藩士古川家の次男として生まれましたが、七代に子がなかったため、母の実家である橋本家に入り、文化13年(1816)に忠吉と新左衛門を襲名しました。嘉永3年(1850)に大砲製造方に任命され、佐賀藩の近代化に貢献しました。
九代忠吉 / 天保3年(1832)~明治13年(1880)
八代の嫡男として生まれましたが、明治4年(1871)の太政官布告(廃刀令)をもって廃業したことから、その存在はあまり知られていませんでした。戦前までは忠吉家は八代までとする書物が少なくなかったのですが、その技量は歴代の中でも出色とされています。